モダン芸妓とは、ひとつは外国人の芸妓であり、最初はアメリカ人。着物ではなくモダンな服装で登場した。亡命したロシア人もいたという。
さらに、1923年4月には上野公園で開催された東京大正博覧会に白山の芸妓衆55人が出演して踊りや常磐津で喝采を浴びた。それまで、まだ世間的に認められていなかった白山芸妓たちは、この博覧会を契機として、その存在を知られるようになった。1925年には白山芸妓の常磐津がラジオで放送されたこともある。芸妓がラジオ出演したのは、これが最初だといわれている。
ストリップ・ダンスの登場
こうして発展した白山三業地であるが、昭和に入るとモダンな文化が隆盛し、映画女優、バス・ガール(車掌)、ダンサー、カフェーの女給、果ては映画館で切符を売るチケット・ガールまでもが女性の新職業として持てはやされるようになり、芸妓の地位が下がり始めるという時代になっていった。だから、あまり芸のない芸妓はカフェーの女給に転職するということも多かったらしく、永井荷風を読んでもそんなことが書いてある。
そのため芸妓にも三味線、踊り、常磐津など以外の新しい芸を身につける必要が出てきた。そのため、歌謡曲を歌ったりバイオリンを弾いたりする芸妓が現れた。究極が白山に1930年に誕生した「ダンス芸妓」である。10人以上で、蓄音機で流す流行歌に合わせて振り袖姿で踊ったり、ワンピースを着て西洋の楽曲で踊ったりしたのである。また、芸妓がマンドリンやギターを弾くこともあった。
ダンス芸妓が人気を集めると、ほかの三業地にも波及した。ところが、五反田では1934年ごろにストリップ・ダンスをする芸妓が登場し、警視庁が捜査に乗り出すことに。新聞は「ダンス芸妓弾圧はまかりならぬ」と論陣を張ったため、ますます白山のダンス芸妓の知名度が上がり、一躍マスコミの寵児となったというが、結局、ダンス芸妓は終焉することになってしまったのである。このように、今はちょっと地味な感じの白山という街にも華やかな歴史がある。それが東京の面白さ、奥深さである。
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