札幌、横浜、渡鹿野島、飛田新地、沖縄……。かつて日本各地に「青線」と呼ばれる非合法の売春地帯が存在した。戦後の一時期売春が認められていた「赤線」と区別され、そう呼ばれていた場所は、その後どうなったのか。

 10年以上かけて全国の青線とその周辺を歩いたノンフィクション作家、八木澤高明氏の著作『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)から、一部を抜粋して転載する。(全3回の2回め/#1#3を読む)

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この町に、原色のドレスを着た女性が……

 神町駅から車で5分ほどの場所に自衛隊駐屯地があった。そこがかつての米軍基地である。駐屯地から西方向、山形空港へと延びた道の両側にスナックや焼き肉店などの飲食店が軒を連ねていた。着いたのは昼間ということもあり、ほとんどの店が開いている様子はなかった。私は日が暮れるまでホテルで休むことにした。

 ざっと町の中を走っただけだが、駅の周辺は住宅街、少し外れると果樹園が広がる景色からは、この場所をかつて米兵たちが闊歩し、原色のドレスを着たパンパンがいたということがにわかに想像できない。もし私が何の知識もなしにこの町を通り過ぎたら、過去の売春の匂いなど感じ取ることはできなかっただろう。

©八木澤高明

 現在自衛隊第6師団が駐屯する神町駐屯地が米軍基地となったルーツは、太平洋戦争中に日本海軍が予科練の航空基地として飛行場を建設したことにある。飛行場は戦後拡張され山形空港となった。兵舎などの施設が、米軍基地となったのである。

終戦間近には米軍機から機銃掃射された

 日本海軍によって飛行場建設が計画されたのは、1942年のことだった。舞鶴海軍航空隊がパイロット養成のための飛行場として神町に目をつけたのである。県内から人員を動員してすべて人力で2年の歳月をかけて飛行場は完成した。

 滑走路の長さは1200メートル、現在の山形空港の滑走路は2000メートルであるから、海軍が造成したものは、その半分強の長さであった。配備されたのは主に赤トンボと呼ばれた93式中間練習機で120機が訓練に使われた。他にも一式陸上攻撃機も配備されていたという。当時の世相を反映させるものとして、近隣の村人たちが、献金をして終戦の年に4機の陸軍戦闘機を献納したという話が残っている。

©八木澤高明

 終戦間近の8月6日には、飛行場に米軍機が来襲し機銃掃射を浴びせた。この時の空襲で自分たちの献納した飛行機が、米軍機を迎撃することを、住民たちは固唾を飲んで見守っていたというが、日本軍機は飛び立つことはなく、米軍にされるがままで、がっくりきたと、当時の神町の様子を記録した村山ひで著『戦争は終わった』は記している。