札幌、横浜、渡鹿野島、飛田新地、沖縄……。かつて日本各地に「青線」と呼ばれる非合法の売春地帯が存在した。戦後の一時期売春が認められていた「赤線」と区別され、そう呼ばれていた場所は、その後どうなったのか。

 10年以上かけて、全国の青線とその周辺の現場を歩いたノンフィクション作家、八木澤高明氏の著書『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)から、一部を抜粋して転載する。(全3回の1回め/#2#3を読む)

©八木澤高明

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日本売春史を背負う街・飛田

 私が初めて飛田新地を訪ねたのは、今から5年ほど前の2010年のことである。天王寺駅前でタクシーを拾い、飛田新地と行き先を告げた。上町台地の丘の上にある天王寺駅から、坂を下っていくと、西成のドヤ街に入る。タクシーで少し走っただけで、西成や飛田が、低地にあることは一目瞭然だった。昼間からふらふらと歩いているオッチャンや、1泊1600円、エアコン・テレビ付きと書かれたドヤの看板なども目につく。

 通りの光景に目を奪われていたら、タクシーはいつのまにか飛田新地の入り口に差し掛かっていた。

「物色しますか?」

 ゆったりとした口調で運転手が尋ねてきた。車で飛田新地の中を回りますかと言うのだ。その申し出を丁重に断り、車を下りて町の中をゆっくりと歩くことにした。

「お兄ちゃん、今座ったばかりよ、ここで決めてよ」

 格子がついた窓、玄関を入った廊下には赤い絨毯が敷かれ、座布団を敷いて若い女がスポットライトを浴びて座っていた。日本にこんな場所が残っていたのかと驚かずにはいられなかった。

「お兄ちゃん、今座ったばかりよ、ここで決めてよ」

 遣り手婆の声につられて、店を覗くと若い女が微笑んでいた。ひと昔前の日本にタイムスリップしたような浮き世離れした光景は、間違いなく現実のものなのだが、すでに幻であるかのような印象を受けた。

©八木澤高明

 歩いていたのは若い女性ばかりがいて有名な青春通りと呼ばれる一画だった。

「いやーぁ、すごいですね」

 出張で大阪へ来たついでに飛田を訪れたのだろう。スーツを着て標準語で話す一団が多かった。

 飛田新地ができて100年近く、大阪の遊廓のほとんどは、太平洋戦争中の大阪大空襲により焼失したが、ここ飛田は半分以上の建物が戦災を逃れ、昭和初期の遊廓建築が多く残っている。飛田は公娼街から赤線となり、1958年売春防止法が施行された後、料亭などに変わる店もあったが、その多くが娼婦を置き、売春を続けている。東京の吉原や那覇の辻など多くの赤線がソープランド街などに変化していったのと違った道を歩んでいる。