飛田の客は、圧倒的に若いサラリーマン
売春街としてこの町は生き残り続けている。付近には団地なども建ち並び、飛田新地の一画だけが、時代に取り残されたように変わらぬままである。経済的な要因にプラスして、やはり空襲で焼け残ったということと、大阪の町外れでありながら、環状線の駅に近く客足が絶えないことが、今日まで続いた大きな要因となったのではないか。そして、横浜の黄金町などでは、娼婦は若い外国人に変わっていったが、この町では日本人の若い女しかいない。それだけの供給先が飛田新地を取り巻く環境にはあるということだ。
今から60年ほど前には飛田新地だけでなく、そのまわりも青線地帯となっていたと、戦後に記された『全国女性街・ガイド』には記されている。かなり密集地だったようで、飛田新地に入る前に、青線の客引きに捕まる客も少なくなく、タクシーで飛田新地に向かうようにとアドバイスしている。『全国女性街・ガイド』では釜ヶ崎の男娼についても記しているので抜粋したい。
《現在は18才から43才までが約30名屯している。歌舞伎を毎日のようにみて、身のこなしやもてなし方を研究するというから色っぽい点はうけ合い。(中略)このごろでは毛ずねもエバクリームで取っているから、そそっかしい酔っぱらいは関係後もわからぬそうである。というのは、おかまに非ずして内股を使う表芸にも達しているそうだ》
釜ヶ崎は今では日雇い労働者の町というよりは、生活保護受給者たちが暮らす福祉の町となり、夜に町の中を歩いてみたが、街娼らしい姿を見かけることはなかった。飛田新地に女を買いに来る釜ヶ崎の人間はほとんどおらず、町として隣り合っていながら、両者は今ではほぼ断絶した関係にあるのである。飛田の客は、圧倒的に若いサラリーマンの姿が目につく。飛田新地がこの地にやって来た当初の役割はすでにない。そう考えると、町の寿命は尽きるのではないかという思いがする。
「前金でお願いします」...料金は15分1万円
飛田新地を何度もまわり、ある程度土地勘がつかめたので、店に入ってみることにした。圧倒的に客が多い青春通りは遠慮して、今では料亭になっている元遊廓の百番界隈の店に入ってみることにした。そのあたりは古い建築の店が多く、働く女性の年齢も比較的高いためか人通りも少ないので、ゆっくり話すことができると思った。
広々とした玄関で靴を脱ぐと、「飲み物は何にしますか」と声をかけられた。缶コーヒーをお願いして、赤い絨毯が敷かれた階段を上がった。2階には、かつて遊廓に泊まることもできた名残である水場があった。廊下には部屋が並んでいて、2つ目の10畳ほどの部屋に通された。部屋の奥には赤いランプに照らされた布団が敷いてあった。
女は部屋に案内すると、「前金でお願いします」と言って、15分1万円の料金を要求した。金を支払うと、片手を添えて受け取り、1階の帳場へと下りて行った。