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「小学校の校庭や農家をホテル代わりに…」米兵相手の“派手な服の女性”だらけになった山形の町の戦後史

『青線 売春の記憶を刻む旅』#2

2021/04/03

「派手な服を着ていたから、幼心にきれいだなって」 

 スナックのママは神町がある東根市の出身ということもあり、幼い頃にパンパンの姿を目にしていた。

「いゃーあ、私にはきれいに見えましたよ。今の人とは比べものにならないですよ。みんな地味なモンペの時代に派手な服を着ていたから、きれいだなって幼心に思ったもんですよ」

 パン助と蔑む人がいる一方で、中には彼女のような感覚を持った子どもがいたことが新鮮な驚きだった。

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「とにかくそうした女性はいっぱいいたんだなぁ。みんな東京から来ていてなぁ。あの当時は女の人ばかりじゃなくて、男の人だって、飲食店を経営したりしてひと山を当てようなんて考えた人が東京から来たんだにゃあ。

 米軍が来る前は、神町は貧乏村で有名だったんよ。ここは昔から水がなく、お米も取れないようなところでね。神町には嫁をやるなって言われたもんでな。今じゃ、リンゴやサクランボも取れますけど、昔は土地が痩せていたから、果物もまともに実らなかったんですよ。基地から出る道路だって、空港だってみんな米軍の置き土産だよ」

©八木澤高明

米軍が来るまでの神町の歴史とは?

 後日、図書館に行き、神町の歴史を紐解いてみた。かつて神町のあたりは若木林と言われ、赤松の林に覆われ、江戸時代初期に開拓されるまで農地はなく、村もなかった。山形県最大の扇状地に位置していたのがその理由だった。神町のある扇状地は乱川扇状地と呼ばれ、傾斜がきつく、土壌も川によって運ばれた石や砂でできていることもあり、保水力がなく、満足な地下水を得ることができなかった。そのため稲作ができない土地だったのである。その状況は江戸時代初期に開拓がはじまってからも変わらなかった。神町の開拓地では年貢の米の代わりに大豆を納めた。

 江戸時代初期に新町村と名づけられたのだが、幕末の1839(天保10)年に神町村に名称が変わっている。一説には、江戸時代この地を通る旅人が来るたびに家が新しくなっているのを見て不思議に思い、村人に尋ねると、水の便の悪いこの土地では、ひとたび火事になると、満足に消火活動ができないため、必ず焼け出される家があり、家が新しくなるのだと言ったという。

 そこで、新町という名前が悪いから、どうしようか思案したところ、若木山にある若木神社に参拝客が多くくることから、若木神社にあやかり神町と呼ばれるようになったのだという。