「米兵に妾にされる」と真剣に思っていた時代
1945年8月15日の終戦後、米軍の進駐が決まったわけだが、神奈川県厚木飛行場にパイプを片手にマッカーサーが降り立ったのは8月30日。ここ神町に米兵が進駐してきたのは、9月19日のことだった。進駐が決まると、神町を管轄する警察署長は神町周辺の町や村を回って、講演して歩いたという。
その内容は、婦女子に向けたもので、外国人は習慣が違うから、何を話しかけられても決して口をきいてはいけない。向こうの人は、愛人以外に笑顔を見せない。下手に笑ったりすると、これはOKの意思表示だと間違えられてひどいめに遭うといった主旨のことだった。
今その内容を読むと、あまりの偏見に吹き出してしまうが、当時は鬼畜米英と蔑視し、米兵が上陸して来たら、男たちは金玉を取られ、女たちは妾にされると真剣に思っていた時代であるから、この感覚もいたしかたない。実際に進駐してきた米兵によって、全国で暴行事件も多発した。
農村地帯は変貌していった
神町に駐屯したのは、米軍第8軍第11空挺連隊の700名であった。この部隊は、ルソン島ではバレテ峠の戦いなどの激戦地に投入されたほか、マニラの市街戦で日本軍と戦い、日本本土上陸作戦が行われることになれば、九州に上陸するはずだった歴戦の強者だった。
進駐部隊は神町駅に10両の列車で乗りつけてきた。その日、米兵たちを恐れて町の人々は誰ひとり外に出る者はいなかった。町の中は静まり返り、人々は押し入れの中に隠れ、米兵たちが通り過ぎるのを息を殺して待った。米兵たちの靴音を聞いて、障子をほんの少し開けて覗く者がいたぐらいだった。
村人たちは、米兵たちがどんな悪さをするかと思っていたが、整然と行進していく米兵の様に、肩すかしを食らったのだった。ただ米軍への警戒は怠ることはなく、女性のひとり歩きを禁じたり、女性ものの洗濯物は外に干さないようにしたという。
米兵の進駐がはじまり、しばらくすると、米兵目当てのパンパンたちがどこからともなく集まり出した。農村地帯はパンパンの町へと変貌していくのだった。