米兵は日本の男たちよりずっとやさしかった
翌朝からが仕事だった。料亭は畳の上にベッドを置き、床の間の柱にペンキを塗って洋式に見せたという。開店すると列をなしていた米兵たちが土足のまま障子やふすまを蹴破ってドッと上がり込んできた。ベッドだけでは足りず、広間に布団を敷いた。広間で仕切りもなしに抱き合っている者もいた。それでも女性が足りず、あぶれた米兵が暴れた。女郎屋 、芸者屋の主人たちは大金を持って田舎に行き、疎開している女性たちをどんどん買い集めてきた。米兵の巨体に驚いた女性も多かった。恐怖におびえながら、女性たちは無我夢中で米兵の相手をした。午後の閉店までに、ある女性は23人の相手をした。何日かすると1日60人の相手をする女性までいた。
時間外にやってきて帳場女性をねじ伏せるということは日常茶飯事だった。「小町園」のある娘は膣を破られて失神した。布団は血の海で、米兵は娘の血でふすまに「very good」と落書きした。あまりのことに逃げ出す女性や発狂する女性、逃げ出して電車に飛び込み自殺をする女性もいた。
経験のない処女では効率が悪いということで、そういう女性は向島の妓楼に回し、交換でベテランの女性を連れてきたりもした。だが、一方で、米兵の中には日本の男たちよりずっとやさしく親切だった者も多かった。米兵は鬼畜で日本の婦女子を暴行すると思ってRAAをつくった側としては拍子抜けするほどだった。男が女にあんなに親切にしなければならないのか、戦争に勝った国の男なのにと、日本の男たちはびっくりしたという(東京焼け跡ヤミ市を記録する会著、猪野健治編『東京闇市興亡史』草風社、鏑木清一『秘録 昭和のお吉たち 進駐軍慰安作戦』番町書房、小沢昭一・永六輔『色の道 商売往来 平身傾聴 裏街道戦後史』ちくま文庫)。
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