集まった女性たちには、まず飯を食わせた。食えるだけで大変なことだった。食後、女性たちは、国家の大事業とは売春であると知らされて仰天した。
ある女性は、「ダンサーか事務員と思ってきたのですが」と質問すると、「お国のためになる仕事なのです。誰に恥じることもありません。慰安婦といっても、戦争中と違って、アメリカの兵隊と親善のために交際をするのです。お互いに仲よくやる仕事です」と回答された。
だが、食っていくためにはしかたなかった。給料は高かった。女性たちのうち、まず50人がRAAの1号店である大井の「小町園」に送り込まれた。
吉原、新宿、千住は白人兵用、亀戸、新小岩、玉の井は黒人兵用
女性たちはトラックに乗せられて大井に向かった。焼け残った料亭はすべて買収されていた。「小町園」の前には朝からすでに米兵のジープが行列をなしていた。
女性たちは到着すると、まず世話役の女性が「まだ男を知らない人はいますか」と聞いた。「応募された方には処女の方が多いのです。日本の女性を守るために、一身を犠牲にする覚悟で、清い体で応募してくださった方もあるのです。どうぞ経験者はよく指導してあげてください」。手を挙げた女性は30人ほどいた。「はい、その方たちは、あとで私の部屋に来てください。お教えしますから」と世話役の女性は言った。
それから女性たちは風呂に入れられ、消毒器や手洗いの設備を見て回った。着物は三越、白木屋で焼け残ったものをすべて差し押さえてあったので、それを着た。化粧品は資生堂から押さえてあった。月島の内閣統計局の倉庫に差し押さえた物資を入れていたという。そもそも最初に慰安施設として接収しようとしたのが日本橋の三越だった! だが、そんな目立つところに米兵が集まると周辺の婦女子も暴行されるから、施設は分散立地させよと警視庁がいうので、大森のほか、立川、福生 、三鷹などの多摩地域も含めて東京都内各地、また箱根 ・強羅の常盤館、熱海の観光閣にも施設ができた。
向島の大倉喜八郎(1837~1928年)別邸(編集部注:贅を尽くした邸宅で海外の賓客を招いていた)も市川の料亭も接収されて慰安施設となった。大倉別邸や向島、人形町、白山の花街は高官用の慰安施設にされた。吉原、新宿、千住は白人兵隊用、亀戸、新小岩、玉の井は黒人兵用とされたという。