いまから53年前のきょう、1964(昭和39)年10月16日、オリンピック開催に沸く東京・銀座の並木通りに、道路を清掃する集団が現れた。とはいえ、白衣姿で、路面をぞうきんで懸命にこすったりする彼らの姿はどこか奇妙で、通行人のなかには不審の目を向ける者もいた。じつは彼らは、「ハイレッド・センター」という美術家の高松次郎(当時28歳)・赤瀬川原平(同27歳)・中西夏之(同29歳)が結成したグループで、この清掃活動は「首都圏清掃整理促進運動」と題するパフォーマンスであった。
高松・赤瀬川・中西の3人はその前年の1963年3月、読売アンデパンダン展(無審査の展覧会)に作品を出展し、意気投合したのをきっかけに、同年5月にグループ展「第5次ミキサー計画」を開催。このとき初めて各人の名字の頭文字をつなげたハイレッド・センターを名乗る。グループ展のタイトルに掲げられた「ミキサー」には、平穏な日常のなかに芸術を持ちこむことで、退屈な日常を撹拌する(かき混ぜる)という意思が込められていた。以来、ハイレッド・センターは、ビルの屋上からトランクなどさまざまなモノを落下させた「ドロッピング・ショー」や、帝国ホテルの一室に横尾忠則やオノ・ヨーコら友人・知人の芸術家を招いて身体測定を行なった「シェルター計画」など、多様な活動を展開する。
「首都圏清掃整理促進運動」は、ハイレッド・センターの集大成ともいえるパフォーマンスとなった。ちょうど東京ではオリンピックの開催にあたり、外国人を迎えるべく、街の隅々まできれいにしようという動きが過剰なまでに高まっていた。ハイレッド・センターは、そうした空気に異議を唱えるため、逆説的に清掃を行なったとも解釈できる。もっとも、当事者のひとり赤瀬川は後年、次のように書いている。
「そういう空気の中で、それじゃあいったい我々は何をすればいいのかと、ハイレッド・センターは深く考えました。考えたけどあまりいい考えも浮かばずに、やっぱりこりゃ掃除だねと、みんなと同じように掃除をしようということになりました。でも掃除は掃除だけど正しくやろう、テイネイにやろう、ジックリやろう、これが本当の掃除だという、何というか、日本一の掃除をやってやろうじゃないかと、そう心に決めたのでした」(赤瀬川原平『東京ミキサー計画』ちくま文庫)
この行動からまもなくして、ハイレッド・センターは自然に解散となり、以後、メンバーは三者三様の道を歩んだ。余談ながら、「首都圏清掃整理促進運動」が行なわれたのと同日には、中国が初の原爆実験に成功している。