いまから58年前のきょう、1959(昭和34)年5月26日、西ドイツ(当時)のミュンヘンで行なわれたIOC(国際オリンピック委員会)総会での投票により、5年後の1964年の第18回オリンピック開催地に東京が決定した。最初の投票で過半数を得ての大勝であった。

 前回の第17回オリンピックにも東京は名乗りを上げたものの大敗していた(結果、ローマが選ばれた)。捲土重来を期すべく、第18回大会招致ではJOC(日本オリンピック委員会。現在の会長にあたる当時の委員長は竹田恒徳)の統轄のもと積極的な招致活動が展開され、ミュンヘンでの総会の直前には、陸上の織田幹雄や大島鎌吉、水泳の清川正二ら過去の五輪メダリストを含む関係者が世界中を回り、各国のIOC委員に対し多数派工作を行なう。

 総会は5月23日に始まり、JOC委員の平沢和重がプレゼンターとしてIOC委員たちを前に演説し、「日本では小学校の教科書のなかにもオリンピックの精神が書かれている」と、日本のオリンピック運動が根強いものであることを強調した。じつは平沢は、招致運動時期尚早論を唱えていたが、当初プレゼンターに予定されていた外務官僚がケガで辞退したため、急遽この役を引き受けたのだった。NHKの解説委員でもあった平沢は、簡潔な演説でアピールすることに努め、制限時間のわずか3分の1の15分で収めた(岡邦行『大島鎌吉の東京オリンピック』東海教育研究所)。このことも功を奏すことになる。

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 1940年開催の東京オリンピック決定時(1936年)には、新聞各紙の見出しは国威発揚を期待する色合いが濃かったが(大会自体は日中戦争により返上される)、このときの新聞の見出しは、「東京オリンピック決まる」「聖火、初めてアジアに」と事実を淡々と報じるものが目立った。時の岸信介首相の談話も「わが国民がスポーツを愛好し、スポーツマンシップを尊重する態度を広く世界に示すよい機会であると思う。(中略)大会を成功させるために全力を挙げて努力したい」と、しごくあっさりしたものであった(塩田潮『東京は燃えたか 黄金の'60年代』講談社文庫)。岸は東京オリンピック準備委員会の会長を務めていたとはいえ、政府として招致活動に口を出すことはほとんどなかったという。岸の頭は、目下交渉を進めていた日米安保条約の改定でいっぱいで、オリンピックどころではなかったようだ。

 なお、このときJOCの総務主事として招致活動で中心的役割を担ったのは、日本水泳連盟会長などを歴任した田畑政治(まさじ)という人物である。2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』では、主人公のひとりである田畑を阿部サダヲが演じる予定だ。

1964年東京オリンピック開会式の様子 ©getty