1979年は、まさに近藤がスターの階段を駆け上がった年だ。『3年B組金八先生』(TBS系)の生徒役でデビューし、田原俊彦(60)や野村義男(56)とのたのきんトリオで一躍ブレイクした。まだデビューも決まっていなかった東山にとって、芸能界の最前線で活躍する近藤はまぶしい存在だった。
「近藤は1980年に『スニーカーぶる~す』で歌手デビューし、翌年にはレコード大賞最優秀新人賞を受賞してあっという間にトップアイドルの座を手に入れました。当時原宿にあったジャニーズの合宿所に帰るのが深夜になることも増えたのですが、その近藤のために夜食を作ったり、一緒にツーリングにでかけていたのが東山なんです。近藤が苦手だったバク転も、後輩の東山に教えてもらっていました。東山は1982年に少年隊のメンバーになった後も、1985年に『仮面舞踏会』でデビューするまで近藤のバックダンサーとして踊り続けました」(スポーツ紙芸能記者)
少年隊の「仮面ライダー事件」の裏にも近藤が?
近藤の後を追うようにデビューした少年隊は順調に人気を獲得していたが、彼らの知名度を一躍全国区にするある“出来事”にも近藤が関係している。
「少年隊は1986年の『紅白歌合戦』(NHK)にデビュー曲の『仮面舞踏会』で初出場したのですが、白組司会の加山雄三(84)が曲名を『仮面ライダー』と言い間違えたんです。少年隊メンバーは当惑して満足なパフォーマンスができず、終了後に号泣。しかしそれを見たジャニー喜多川さんが『ユーたちラッキーだよ、これでみんな覚えてくれる』と慰めたことがありました。ただ、この事件の“原因”は近藤にあったんです。リハーサルで少年隊の衣装を見た近藤が『仮面ライダーのショーみたいだな』とからかい、それを聞いた加山が曲名を言い間違えてしまった。東山は後に『マッチさんのせい』と笑い話にしていますが、それほど親密な関係でした」(テレビ局関係者)
その後も東山は、折に触れて「今の自分があるのはマッチさんのおかげ」と話している。しかし、2人のタレントとしてのスタンスは正反対だった。
「東山は歌も踊りも完璧を追求するアスリートのようなアーティスト。しかし近藤は、『俺の仕事は俺が決める』と言って芸能活動よりもレース活動を優先する奔放なタイプ。恋愛面でも派手に遊んでいました。そして、“あの事件”が起きたんです」(レコード会社宣伝マン)