今月は三冊の新刊が刊行された「抵抗者」たちの評伝を取り上げたい。
まず池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ』(中公新書)。ヒトラーを厳しく批判していたトーマス・マンはオランダ、フランスへの講演旅行からの帰国を阻まれる。以後、亡命先の米国を拠点にナチス批判の言論活動を続けた文豪の闘いを本書はマンが残した日記から跡づける。
注目すべきはナチス政権瓦解後もマンの闘いは終わらなかったことだ。戦後ドイツで「共犯の罪」は一向に語られない。自分たちがナチスを生み出した自覚と反省を欠く同胞にマンは深く絶望し、祖国に戻らずスイスで病没した。
東谷暁『山本七平の思想』(講談社現代新書)を読むと山本もまた安住からほど遠い境地にいたことが分かる。架空のユダヤ人イザヤ・ベンダサン名義で『日本人とユダヤ人』を刊行。一躍、時代の寵児となった山本の「日本人は空気でものごとを決めてしまう」という指摘は有名だ。「空気」で動く社会が暴走したらそこに「水」を差す必要がある。しかし山本は日本社会ではその「水」すら「空気」に変わることに気づいていた。
状況は今も変わらない。たとえば社会不安からの脱却を漠然と期待する「空気」の中で自民党は安定多数の議席を得て国政を自在に操ってきた。そこに「水」を差そうとする側も「反アベ」ならなんでもよしとする「空気」を醸成。こうした「空気」の中で確かな政策論議は不可能だろう。
山本自身は「空気」に流されないために日本社会の中で一人の「異教徒」として生きる覚悟を決めていた。その選択の意味を再考する必要性は今も変わらない。
河邑厚徳『むのたけじ 笑う101歳』(平凡社新書)はまた別の抵抗者像を描く。ポツダム宣言受諾を知りつつ国民に知らせなかった新聞各社の欺瞞に嫌気がさしたむのは終戦の日に新聞社を辞めた。以後、たった一人で週刊新聞「たいまつ」を発行し続け、その休刊後は百歳を超えるまで自らの信念を講演等で訴え続けた。そんな激烈な反骨人生の最後に微笑みながら死ぬことをむのは望み、本願を見事に成就させたのだという。
抵抗者は家郷を追われ、孤独を強いられるかもしれない。だが己のすべき仕事をなし続けた人生に悔いは残らない。だから物怖じするな。むのの評伝の行間からは彼が生涯を賭けて証した成果を踏まえた応援のエールが聞こえてきそうだ。
新書が読者を力づけるのは実用的知識の提供を通じてだけではない。生きる勇気を読者に届ける器にもなるのだ。