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G.G.佐藤さんと悩んだ日々…トレードは人生をどう変えるか〜米野智人の場合

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/07/08

 思いもしない知らせは、突然告げられた。

 2010年6月18日、当時ヤクルトスワローズの2軍で悩んでいた、というより病んでいた私、米野智人は野球をやめようかなと真剣に考えるくらいの状態だった。高卒11年目、プロでのキャリアは思うように行っていなかった。

 関東甲信地方で梅雨入りが発表されて少し経ったその頃。イースタン・リーグ公式戦がヤクルトの2軍グラウンドの戸田球場で行われる試合前練習の時だった。

 2軍のマネージャーから真剣な顔で「ヨネ! 今すぐクラブハウスに行ってくれ」と言われた。何を言われているのか、すぐには意味がわからなかった。

「は、はい。ん? これは……ん? トレード!?」

 もしそうだったら、こんな俺を欲しいと思ってくれている球団はあるのか? そんなことを考えながらクラブハウスに戻り、球団の方が待っている部屋へ向かった。

米野「お疲れ様です」
球団「お疲れさん。なんで呼ばれたか、わかる?」
米野「あ、はい……。トレードですか?」
球団「そうだ」
米野「どこのチームで相手は誰ですか?」
球団「ライオンズの山岸」

 トレードの相手は2005年に青山学院大学から西武ライオンズに入団した山岸穣投手。

 そのシーズン、ヤクルトは低迷中の投手陣が補強ポイントだった。対してライオンズは、捕手の炭谷銀仁朗が3月のオープン戦で左膝を負傷して長期離脱の可能性があり、この交換トレードが成立した。

球団「じゃあ明日、11時に所沢の球団事務所で記者会見だから、よろしく。頑張ってくれ!」
米野「はい、わかりました。頑張ります」

 奇しくもトレード先は、同日からイースタンリーグ3連戦で対戦するライオンズだった。

 ヤクルトに入団した時は、自分がトレードで他球団に移籍するとは想像したこともなかった。10年以上も慣れ親しんだチームを離れるのは正直、嫌だった。しかも野球に対して情熱を失いかけていたタイミングだったので、最悪だと感じた。

「類友」のG.G.佐藤

 じつはこの年、捕手として行き詰まっていたことで、球団に一度「試合に出られなくてもいいので、外野にポジションを変えたい」と打診したことがある。

 トレードを告げられたのは、その1ヶ月後くらいの出来事だった。

 内心ではとても複雑な気持ちだったが、ライオンズは「まだ米野は捕手として戦力になる」と考えてくれていたので、自分としては頑張るしかなかった。

 所沢の球団事務所で入団会見を終えた後、西武第二球場で軽く汗を流して自宅に帰り、ヤクルトでお世話になった方々に連絡をした。その後、物思いにふけっていた時、ライオンズの2軍マネージャーから連絡が入り、「明日の戸田でのヤクルト戦で野手が不足しているから、申し訳ないけど参加して」とのことだった。

 一昨日までヤクルトのユニフォームを着ていたのに、2日後にはライオンズのユニフォームを着て古巣のチーム相手に試合をしている。なんとも不思議な気持ちだった。

 まだ自分のユニフォームが届いていなかったので、当時投手だった木村文紀の41番のユニフォームを着て試合に出場したのは、今振り返ればいい思い出だ。

 キム、貸してくれてありがとう!

 移籍後、僕はやはり低迷が続き、1軍に呼ばれることもなく2軍で悩んでいた。

 ちょうどそんな時、西武のファームにもう一人悩んでいる人がいた。G.G.佐藤さんだ。

 G.G.さんも本来のプレーができず、いつも考え込んでいる様子だった。

 今だから、笑い話として振り返ることができる。あの時は、二人とも精神的に病んでいた。

 類は友を呼ぶではないけれど、よくロッカールームで話していたのが懐かしい。

 ある日、一緒に車でラジオを聴きながら移動していると、美空ひばりさんの名曲「愛燦燦」が流れた時に二人とも泣きそうになったことをよく覚えている。