京王よみうりランド駅からよみうりランドを目指す際、「スカイシャトル」というゴンドラに乗る。多摩丘陵の小高い場所に遊園地があるためだ。

 ジェットコースターや観覧車などのアトラクションが遠くに見え、気分は高揚していく。すると、隣に座る幼稚園年長の息子が、眼下の景色を見ながら尋ねてきた。

「おとうさん、あれはなに?」

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 そこには美しく整えられた黒土と天然芝の野球場が広がっていた。「読売ジャイアンツ球場というんだよ」と息子に伝えると、息子は「ここでやきゅうをするの?」と重ねて聞いた。私はうなずいて、息子にこう語りかけた。

「いつか一緒に野球を見に行けるといいね」

 息子は「うん」と答えたものの、あまり気の入っていない相槌にも感じられた。息子は野球に興味がないからだ。それが約1年前の出来事だった。

「試合が長い」と嘆く同業者への違和感

 ライターとして野球場に通う日々を過ごしていると、嫌でも業界に染まっていく自分にげんなりする瞬間がある。しかし、私は諸先輩方のふるまいを見て、「自分は死んでもこうはなるまい」と心に決めていることがある。それは、試合時間への文句を言わないことだ。

 きちんと入場料を払い、スタンドで観戦する野球ファンには、試合内容について自由に感想を述べる権利がある。だが、自身の懐を痛めずに取材パスで野球場に入った人間が、「長い試合だなぁ」と文句を垂れる光景には違和感を覚える。ましてや新型コロナウイルスが蔓延して以来、プロ・アマともに入場者数が制限され、試合を見たくても見られない人も大勢いるのだ。

 そもそも、野球は「試合時間が長い」のが問題なのではない。「試合時間が読めない」のが問題なのだ。その日の展開によって、試合がいつ終わるのかが読めず、観戦後の予定が立てにくい。

 だが、それは「サッカーは手を使えないのが問題だ」と言うようなもの。試合が早く終わろうが、延々と続こうが、それが野球なのだ。野球場にひとたび足を踏み入れたら、もう観念して非日常空間に浸るしかない。ピッチャーが投げなければ試合は始まらないし、球審の「ゲームセット」のコールがかからない限り、野球はいつまでも続くのだから。

 だが、40代を前にそんな心境に達した私に、ある試練が待っていた。

 小学1年生になった息子から「やきゅうにつれてって」と言われたのだ。

 昨年の日本シリーズをきっかけに、息子は野球に興味を持つようになった。かつては鉄道とポケモンに傾倒し、「公園で遊ぼう」と提案しても即座に拒否されるほどインドアな幼稚園児だった。とうとう野球場に行きたいと言うまでになってくれたか……と感慨もひとしおだった。

 だが、私はそこでこう思ってしまった。

「野球って、試合長くないか……?」

 あれほど強固に理論武装したにもかかわらず、自分の野球に対する信頼の脆弱ぶりに私は愕然とした。

 そもそも我が身を振り返っても、「初めての野球場」にいい思い出がない。すぐ飽きて「はやくかえろう」と言っては父を困らせた記憶がある。ルールをよく知らない小さな子どもにとって、野球場で過ごす約3時間は苦行に近いのではないか……。

 しかも、もう一つ難題があった。息子が希望した球場は読売ジャイアンツ球場。かつてゴンドラから見下ろした景色が印象的だったのだろう。つまり、試合を見るとしたらファームの試合になる。坂本、岡本、丸、ウィーラーの名前を覚えたばかりの息子からすれば、知っている選手など誰一人としていない。

 私がアメリカ人なら、喜んで息子を野球場へ連れていき、ピーナッツやクラッカージャックを買い与えるだろう。だが、果たして菓子だけで満足してもらえるものなのだろうか。そもそもクラッカージャックがどういう菓子なのかも実はよく知らない。