7月10日(土)今年も……いや開催が当たり前のような字句を並べるのは、ふさわしくありません。夏の甲子園を目指す高校野球神奈川大会が、2年ぶりに開幕しました。
私が神奈川を根城に高校野球中継や取材を重ね25年ほどが経ちました。プロ野球の舞台で再会できた選手もいます。そんな時はつい実況にも思いを乗せてしまいますが、ベイスターズで巡り会った選手なら、なおさら言葉数が多くなります。
高校時代に交わした言葉は『今』の描写に重なります。
思い切って横浜高校の門を叩いた倉本選手の決意
「今、ここで野球をできていることが嬉しい」
2007年夏、倉本寿彦選手に初めて取材した際の言葉が、中継資料に残っていました。
「野球で一番嬉しかったことは?」と問いかけた時です。2年生だった倉本選手の背番号は15。1学年下の筒香嘉智選手がサードとして中軸を打ち、倉本選手は守備力と足を生かしての途中出場が主。主将だった高浜卓也選手(現在マリーンズ)の守備範囲と強肩に憧れ「守備で貢献したい」と話していました。言葉を慎重に選んで話す印象は今と変わりませんでしたが、中学時代にプレーしたチームを尋ねると「寒川シニア、3期生です」とはっきりした口調の答えが。当時茅ヶ崎市で歴史の浅かったチームから、思い切って横浜高校の門を叩いた倉本選手の決意が垣間見えました。名門チームで野球を学び日々成長できている手応えがあったのでしょう。
翌夏90回の記念大会での横浜高校は、2年生になった筒香選手が4番ファースト、やはりベイスターズOBの土屋健二投手がエース。倉本選手は不動の1番サードとして活躍し、敗れた準決勝大阪桐蔭戦でも2安打1盗塁と気を吐きました。
横浜高校時代の恩師渡辺元智元監督は、不断の努力で力をつけた選手を評して「練習で上達した選手には、壁にぶつかった時に立ち返る場所がある。全てをやり直すのではなく、自分が戻るべき地点を理解した選手は強い」と話してくれたことがあります。倉本選手もそんな一人だったのでは。
面影は今も変わらない倉本選手ですが、2017年8月24日カープ戦で放ったサヨナラタイムリー内野安打を振り返る時「本当にヒットか、スコアボードを確認してしまいました」とニヤリと素敵に微笑む表情、これは高校卒業後に体得したと想像します。
左薬指の骨折から2か月余り、一軍復帰を心待ちにしています。
田中俊太選手の“NEXT ONE”
「最後の夏は一番負けたくない思いが強い」
2011年春の選抜を制し夏も甲子園連覇を目指す東海大相模を取材した際、当時3番セカンドで副主将だった田中俊太選手が発した第一声でした。4歳上の兄でカープの田中広輔選手より少しだけ柔和な表情に感じましたが、アグレッシブなプレースタイルはそっくり。今も、兄弟共に中学生時代にプレーした相模ボーイズ(当時相模原ホワイトイーグルス)出身の高校球児たちが尊敬する選手として二人の名前を挙げます。
田中俊太選手は「自分の状態が悪い時こそ、チームを引っ張らなくては」という思いを持っていました。同級生には菅野剛士選手(現マリーンズ)や渡辺勝選手(現ドラゴンズ)もいたチームの中で「夏は一丸、全員で声を出し合って勝とう!」と先頭に立ってきました。基本プレー、勝利への執念、相手のスキを突く目は当時から優れ、誰よりも自分に厳しい。ベイスターズに移籍した今季、三浦大輔監督が姿勢を高く評価するのも頷けます。
夏の神奈川大会で東海大相模は5回戦、横浜高校に3対1で敗れ思いは叶いませんでした。この年の横浜高校は後にベイスターズでチームメイトになる乙坂智主将、近藤健介捕手(現ファイターズ)、2年生エースに柳裕也投手(現ドラゴンズ)を擁しており、神奈川のレベルの高さを改めて感じます。
田中俊太選手の悔し涙は、今も野球人生のエネルギーになっていると想像します。
ちなみに、当時の取材では将来田中俊太選手の奥様になる同学年のマネージャーの方にも話を聞きました。大会前、選手皆にボール型で“NEXT ONE”と刺繍したお守りを作っていたのです。春の選抜優勝後、門馬敬冶監督がミーティングで引用した言葉。喜劇王チャップリンが「あなたの最高傑作は?」と尋ねられた時「The next one(次の作品)」と答えたエピソードに感銘を受け刺繍にしたとのことでした。
今は左手親指骨折の手術を受けリハビリ中の田中俊太選手、開幕のジャイアンツ戦3安打6打点の活躍の“NEXT ONE”を目の当たりにする日は、必ず来ると念じています。