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 たとえばイギリスはLGBTQ教育が進んでるので小学校からその授業があるのですが、ムスリムの住民が多いバーミンガムの学校では親御さんたちがものすごい反対をして、授業のある日は子供を学校に行かせないようボイコットをして問題になったことがあります。

 そうした様々なゴタゴタや揉めごとが起きているとき、「私たちの社会ではこうするのが当然だ」と同化を強要することは相手を支配することになってしまうし、逆に「相手の考えをあるがままに受け入れよう」みたいなのも現実的な解決策にならない。

 混沌としてる状態がもう足下にある、でもこれをなんとかしなくてはならないというときは、互いの言葉の背景を理解したうえで、話し合って落としどころを見つけるしかない――デヴィッド・グレーバーがいうところの「穏当(reasonable)であれ」というのがエンパシーの肝なのです。

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©️Shu Tomioka

「まあ受け入れられるよね」という方法を見つけてゆく

「reasonable」の意味は、オックスフォード英英辞書を引くと「Having sound judgement; fair and sensible」、つまり理にかなった判断力があること、公平で分別がある、そしてケンブリッジ英英辞書のほうには「goood enough but not the best」、ベストではないけれど「十分によい」状態を指すとも書いてある。

 アナキストで人類学者のデヴィッド・グレーバーが人間にとって重要なのは「合理性ではなく穏当さ」だと語っているのは傾聴に値します。互いにとってベスト・ソリューションではないけど、good enoughで「まあ受け入れられるよね」という方法を見つけてゆく。違う考え方や信条の人々がぶつかったとき、すべての人が100%望むものを手に入れる解決法は無理だけど、そこそこみんなが納得できる方法を話し合って見つけるわけです。

 ムスリムの親御さんたちが反対するからといって、小学校でLGBTQ問題は扱わないわけにはいかないと教員たちは考える。でも気にする人たちがいたときその教え方の工夫が必要かもしれないし、ムスリムの人たちもまた子供は学校に行かせて、話し合って解決策を探る――。エンパシーは異文化問題をミラクルに解決する万能薬ではなく、そういうお互いにgood enoughな穏当さを引き出すための知的作業なのです。異なる伝統や価値観を持った多種多様な人々が、エンパシーを使って話し合い、そのとき、そのときで折り合って解決法を見つけていくことを、グレーバーは「民主主義の実践」とも言っています。