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同質性を強要する社会が日本人を縛り付けている

――自民党のLGBT法案をめぐる議論では、「生物学上、種の保存に背く」という発言が出てきて紛糾するなど、日本では異質な他者への拒否反応が先に立ってしまいがちです。

ブレイディ 多様性が議論にのぼるとき、日本では「平等・公平である」(equality)ことと「同じである」(sameness)ことが混同されがちです。人種やジェンダーや性的指向の違いによって、社会的にハンデを背負わされたり差別的な扱いをされないようにするのが「公平」です。

 多様性は、好むと好まざるとに関わらず既にそこにあるものですから、その前提を受け入れて、公平に扱いましょうねというのがequality。でも、日本ではまるで学校のルールのように「足並みを揃えて同じように振る舞わせ、同質な人間にする」のが公平性だと思っている。髪の色を同じにしろ、スカートの長さを同じにしろ、例外扱いは許さない――そんな固定観念がLGBT問題の根っこにも巣食っているのではないでしょうか。

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©️Shu Tomioka

 哲学者のシュティルナーは、人間の自由を奪うあらゆる制度や思想などを「亡霊」と呼びましたが、同質性を強要する社会システムや集団心理は、まさに「亡霊」のように日本の人々を縛り付けています。そりゃ、みんな同じ宗教でみんな同じ性的指向で似たような生活習慣を持つ人たちのほうが上から管理するにはやりやすいでしょう。しかし、同質性の強い社会は、一人ひとりが自分自身を生きることを許さないから、マイノリティはもちろんマジョリティの側にだってどんどん息苦しさが溜まって、活力がなくなっていく。そこを理解しないと日本はこの先どんどん萎むし、精気を失っていくと思います。

エンパシーを学ぶさまざまなアプローチ

――そこを抜本的に解決するには、社会的な素地としてのエンパシー教育の必要性を痛感します。たとえば本書には『ロミオとジュリエット』の授業で、全員でロミオになりきって手紙を書く、その翌週にはジュリエットになりきるといった学びの事例が出てきますね。

ブレイディ エンパシー教育といっても様々ですが、ひとつは演劇的なアプローチです。ある人物を演じるということは、他者になりきって感情を発露させたり言葉を発したりする表現行為ですから、他者の内面への想像力、理解が自然と促されるでしょう。ただ先生が本を持ってきて「エンパシーとは何か」を道徳の授業のように解説するのではなく、身体性をともなった考える体験が重要です。