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短期間で廃城、山中に残る破却の痕跡

 関ヶ原の戦い後の毛利一族の歴史を知る上でも、感慨深い城です。毛利輝元は西軍の総大将であったことから周防(山口県東部)と長門(山口県西部)30万石に大減封。安芸(広島県西部)との国境に近い岩国に吉川広家が、西の国境である長府には毛利秀元が配置され、東西の守りを固めたと考えられます。

 しかし、慶長20年(1615)に一国一城令が公布されると、岩国城は廃城となり破却の命が下りました。北の丸虎口付近の石垣が激しく崩れ、堀切の底には崩落した石が散乱しているのは、城を破却した痕跡です。

隅角部が崩された、北の丸虎口付近の石垣

 一国一城令は、豊臣家の滅亡後に江戸幕府が公布した、ひとつの領国(藩)につきひとつの城(本城)を残し、そのほかの城(支城)を廃城とする法令です。反逆の拠点になり得る城を廃絶する、大名統制令のひとつでした。また、島原・天草一揆で一揆軍が廃城となっていた城に籠もったことから、終息後は幕府により徹底的な破却が命じられました。

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 広家は城の破却に消極的で、最低限の破壊に留まったようです。山上の岩国城が使われた期間はさほど長くはありませんが、戦国時代末期から江戸時代初期の情勢を伝えてくれます。

堀底に転落した石垣の石材

撮影=萩原さちこ

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 岩国城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」7月号の連載「一城一食」に掲載しています。