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「弱い独裁者」正恩氏の国民統治手段

 しかし、いくら「倒れるほど働く」とアピールしても、自らの健康不安をさらすような真似は決してしなかった。健康不安が政治生命に直結しているのは、日本や米国だけの話ではないからだ。祖父、金日成主席の場合は、首の後ろに大きなコブがあったが、徹底的な撮影管理によって、コブが映り込むことはまれだった。金正日総書記も2008年8月に脳卒中で倒れたが、その事実は厳秘とされた。当時、お見舞いできたのは、妹の金敬姫氏とその夫の張成沢氏、内縁関係にあった金玉氏、そして正恩氏ら3人の子どもだけだったという。

 なぜ、政治生命にも関わりかねない、自らの健康を簡単に切り売りするのか。拙著『金正恩と金与正』(文春新書)でも明らかにしたように、正恩氏はエリート高位層に頼らざるをえない「弱い独裁者」だ。自らの失政や能力不足をあえて認め、それを国民統治の手段に変えてきた。実際、文春オンライン「『能力が思いについていかず…』“偽りの独裁者”金正恩が『過ち』を認める理由とは」で報告したように、北朝鮮当局は、正恩氏が失敗を認めるたびに、市民を対象にした講演会などで「最高指導者に心配をかけさせてはいけない」と宣伝してきた。

『金正恩と金与正』(牧野愛博 著)文春新書

 6月25日の「痩せた正恩氏」を心配する市民の声も、このパターンとそっくり同じだ。要するに「やつれるほど頑張っている指導者のために、市民はもっと頑張らなければいけない」とアピールしたいのだろう。6月28日付の労働新聞も早速、社説で「人民のために滅私服務する革命的党風を徹底的に確立させなければならない」と訴えた。

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痩せた事実を都合良く解釈させた可能性も

 その点、国情院が分析した「正恩氏は、国民に範を垂れるために痩せた」という分析は正しいのかもしれない。しかし、痩せた事実を都合良く解釈させるため、北朝鮮当局がわざと流した情報工作の可能性もある。

 なぜなら、正恩氏の体形は、初めて公に姿を現した2010年当時から、国民の間では「なんであんなに太っているんだ」と評判が悪いことで有名だったという。当時の体重が80キロだったとすると、国民の不評を知りつつも60キロも加重してしまった計算になる。仕事がうまくいかないストレスや、いつ権力の地位を追われるかも知れない恐怖から、過食に陥ったとされる。そんな正恩氏が「国民に示しがつかない」と決心して、自ら痩せようとするだろうか。

 少なくとも、自らの健康を切り売りしなければならないほど、正恩氏の権力の座がもろいことだけは間違いないと言えそうだ。

金正恩と金与正 (文春新書 1317)

牧野 愛博

文藝春秋

2021年6月18日 発売