サニーデイ・サービスのベーシストでありながら、年間600杯以上を食べる“ラーメン評論家”でもある田中貴さん。学生時代にデビュー、20代末のバンド解散、会社員を経て、46歳となった今、再結成したサニーデイ・サービスで活動しています。その独特な仕事へのスタンスを紐解く前後編インタビュー。前編では「コピー機の使い方すらわからなかった」という会社員時代とバンドの中での役割論について聞きました。
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解散したとき「一生会うこともないだろう」と思ったけれど
――田中さんはとても不思議なスタンスでお仕事をされていますよね。本業はミュージシャンである一方で、ラーメンの本を出したり語ったり、ラーメン評論家としての活動もされています。
田中 別に評論家と名乗っているわけではないですけどね。好きで食べてるだけなので。
――そして、かつては会社員として別のバンドのマネージャーもやられていた。
田中 いや、あくまでも裏方として働いていたということなんです。2000年にサニーデイ・サービスが一度解散して、その後にスクービードゥーのスタッフをやることになったのも、彼らはまだ何も知らないから現場でいろいろ教えてやってくれと頼まれたのがきっかけでした。
――その頃田中さんは何歳でしたか。
田中 29歳です。それまではアルバムを作ってツアーをしてという毎日で、友達と遊ぶこともなかったし、忙しいのもあって世間知らずのまま30になった感じでした。僕のデスクはあったけれど、普通に朝10時に出社するようなことはほとんどなかったんですよね。とにかく当時のスクービーが忙しくて、現場にそのまま直行していたんで。
――そういう30代前半の頃は、自分の将来像をどう考えていましたか?
田中 どうでしょうね。大学在学中からバンドをやってたので、就職活動をしてないんですよ。それこそコピー機すら触ったことがなくて。大学のテストのときも、ノートのコピーとか、友だちに頼んじゃってましたから。譜面をコピーするのに「どうやればいいんですか?」って周りに聞くことから始まりました。
――2008年にサニーデイ・サービスが再結成しましたが、そのときにはどんな決断があったんでしょうか。
田中 それも「やってみようか」という感じだったんですよ。解散した時は曽我部(恵一)に対して、「一生会うこともないだろう」くらいには思ってたんだけど。でも、8年経ったら曽我部のソロに呼ばれてベースを弾いたりもしていて、ちょうど北海道のライジング・サンというフェスから「サニーデイで出てくれませんか」という話があったんです。それで、その場で再結成を決めた感じでした。