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第1位「紛争地帯アフガニスタンへ」

 命の危険を最も感じたのは、紛争地帯への出張である。

 2002年2月、アフガニスタンへ行った。9.11後、米軍はタリバン掃討のため戦争を仕掛けており、「終戦後の様子を見に行って欲しい」という雑誌からのオファーだった。社員ではなく私のようなフリーライターにオファーしてくれたのは、リスクが少なく、融通も効くと判断したからだろう。

 渡航直前、経由地であるパキスタンの大使館からビザを取得するためのサインが必要だった。それを雑誌社の社員に求めたところ、彼は動きを止めた。

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社員「これ、オレがサインするの?」

筆者「はい」

 一瞬黙った後、彼はサインをしてくれた。後に聞くと、「あのサインはオレの会社員人生で一番重いものだった。中川と岩間さん(カメラマン)が死んだら辞表は当然出すつもりだった」という。

破壊されたアフガニスタンの博物館 ©中川淳一郎

 実際にアフガンの首都・カブールへ行くと、戦後とはいえ夜になると銃声が響く。外国人ジャーナリスト御用達のようになっているホテルの従業員からは「夜間は絶対に外に出るな」と言われた。ホテルの入り口には、不審者の侵入を妨げる鉄格子が二重に設置されており、中には銃を携えたガードマンもいた。

 結局、怪我もなく約2週間の取材が終わったのだが、パキスタンに陸路で向かう途中、タクシーの運転手が、イタリア人ジャーナリストがタリバンに殺害された場所に寄ってくれた。

イタリア人ジャーナリストが殺害された場所 ©中川淳一郎

 彼らの冥福を祈るとともに、残りの旅の安全を祈念した。

 そして次の街に入る際には、銃を持った兵士がやってきた。「あ、これは殺されるパターンだ……」と思ったが、兵士は「この2人を隣街まで送ってあげてほしい」と老婆と少年を我々の車内に押し込んできた。運転手は「F〇CK!」と英語でキレ続けていたが、こちらとしては兵士に撃たれる不安が解消できてよかった。

アフガニスタンで現地取材する筆者 ©中川淳一郎

 こうして20年近くのライター人生を振り返ってきたが、少なくとも3回は「死ぬかと思った」という経験はしている。ライターという仕事は呑気に見えるかもしれないが、意外とシンドイのである。ちなみにアフガニスタン取材のギャラは経費が想像以上にかかったため20ページで1万6000円だった。