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「もう少し辛抱しろよ」「この野郎!」闘病中の横田慎太郎へ金本監督・掛布二軍監督が送った知られざる“メッセージ”

『奇跡のバックホーム』より #1

2021/07/19
note

 看護師さんたちも本当によくしてくれた。6月9日の僕の誕生日には、なんの前触れもなしに突然、看護師さんたちが10人くらい部屋に入ってきて、「ハッピー・バースデー」を歌ってくれたこともありました。いつも笑顔でかけてくれるやさしい言葉は、僕の安らぎになりました。

家族なしでは耐えられなかった

 繰り返しになりますが、治療はいま思い出してもつらかった。二度と体験したくありません。とくに抗がん剤と放射線の治療を受けていたときは、吐き気とだるさでぐったりすることしかできませんでした。何度くじけそうになったことか。

 それでもめげずに病気と闘い続けられたのは、もちろん僕の力だけではありません。僕ひとりだけだったら、耐えられなかったかもしれない。野球をあきらめていたかもしれません。

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「もう一度野球をする」

 その目標を捨てることなくやってこられたのは、いつも応援し、励まし続けてきてくれたさまざまな人のおかげだと心から思っています。

 第一に感謝しなければならないのは、やはり家族です。とりわけ仕事をやめてまで、ずっとつきそってくれた母の存在はこのうえなく大きかった。

 息子が脳腫瘍という大病をわずらって、母もつらかっただろうと想像します。でも、母はいつも明るく接してくれました。

「逃げずにみんなでがんばろう」

 そう言って、本当に献身的に支えてくれました。

 病室にひとりでいると、どうしても悪いほう、悪いほうに考えがちです。まして手術直後の僕は、目標を失って絶望していました。

「横にいるだけでもいいんじゃないかと思って、一緒に寝泊まりした」

 母は言っていました。「元気になって阪神の寮に帰すまでは、絶対にひとりにしない。一緒にいよう」と考えたそうです。当時の僕は気づきませんでしたが、いま振り返ると、目が見えなくていちばん不安だったとき、母がいてくれたことが大きな力になったと思います。

 車椅子を押していろいろなところに連れて行ってくれたし、野球経験なんかないのに毎日のようにキャッチボールにつきあってくれた。「ナイスキャッチ」と笑顔で声をかけてくれたことがどれだけ僕に希望を与えてくれたか。ラケットを買って一緒にテニスをしたこともあったし、「散歩に行こう」と言って遠くまで歩いたこともしょっちゅうでした。

 抗がん剤治療が始まってからは、毎朝6時に僕の食事をつめたお重と洗濯した服を持ってアパートを出ると、病院に行く途中にあった八幡神社に寄り、僕の全快を願ってお参りするのが日課だったそうです。そうして病院に来ると、一日中僕の世話と相手をし、また帰りには神社にお参りする……。

 最近、母が振り返って言いました。

「一日の半分以上はふたりで笑ってたね」

 言われてみると、たしかにそうだったかもしれません。僕らが笑っているのを見た看護師さんから、「何がそんなに楽しいんですか?」と訊ねられたほどです。