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セ・リーグ投手唯一のシドニーオリンピック代表、広島・河野昌人を忘れずにいたい

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/08/03

 年を取ったせいか、昔の記憶がどんどんおぼろげになっていく気がする。私は、どのような気持ちでこれまでのオリンピックを観てきただろう。そんなことを考えたのも、これまで以上にどのような気持ちで観てよいか分からない東京オリンピックが開幕したからである。

 今回、追加種目として13年ぶりに復活した野球について言えば、2連勝で予選リーググループAを1位通過し、8月2日の準々決勝でもアメリカにサヨナラ勝ちを収めた。日本代表24名のうち、カープからは森下暢仁・栗林良吏・菊池涼介・鈴木誠也の4名(負傷により出場辞退した會澤翼も含めると5名)が選出されているため、チームの応援の延長線上で日本代表を応援しているカープファンも多いことと思う。

 しかし、これまでも「カープを応援する」ことと「オリンピック日本代表を応援する」こととが一致していたかと考えると、必ずしもそうではなかった。「プロ野球の贔屓球団と、オリンピック日本代表とは別」という思いがどこかにあったような気がする。それはカープから代表に選出された選手が少なかったということもあるし、そもそもオリンピックとプロとの関係も影響しているかも知れない。

なぜ河野が代表選出されたのか

 オリンピックの野球競技にプロの参加が認められたのは、2000年のシドニー大会からである。以降、今回に至るまでの3大会でカープからオリンピックに派遣されたのは、河野昌人(シドニー)、黒田博樹・木村拓也(2004年アテネ)の3名のみだ(余談ではあるが、シドニー大会には法大・廣瀬純が、2008年北京大会には阪神・新井貴浩が出場している)。

 黒田や木村に比べると、河野の知名度は高くない。佐賀・龍谷高から1996年ドラフト3位でプロ入りし、カープ7年・ダイエー1年のプロ生活8年間の通算成績は、7勝16敗10セーブ、防御率5.82。「なぜ河野が代表選出されたのか」と疑問に思う人もいるだろう。

 今でこそ日本代表=球界を代表する選手、というイメージがあるが、2000年当時はそうではなかった。オリンピック期間にもペナントレースは続行するため、代表選手はシーズンが佳境に入った9月半ばに戦列を離れることになる。パ・リーグは松坂大輔(西武)や中村紀洋(近鉄)ら各球団から1名ずつ、計6名の選手を派遣したが、セ・リーグはペナントレースを優先し、主力選手をプロテクトリスト(1チーム35名)に入れた。結果、セ・リーグからは鈴木郁洋捕手(中日)と河野の2名のみが選ばれ、プロ8名・社会人11名・大学生5名の計24名のプロ・アマ合同チームがシドニーオリンピック野球代表となったわけである。

 とは言え、そこに河野が選出されたのには理由はある。2000年、高卒4年目の河野は開幕当初は二軍スタートだった。ところが横山竜士をはじめ、カープ投手陣が次々と故障や不調で離脱する中、5月下旬から高橋建と並んで河野の登板機会が激増した。制球力はあまり良くないものの、大きな体から投げるストレートに威力があった。

 達川光男(当時は晃豊表記)監督が「彼(河野)の場合は心臓が強いしスタミナがあるので、比較的長いイニングを投げることができるのも強み。例えば先発投手が早い回でKOされても、もつれる展開になれば6回くらいからのロングリリーフができる」(『アスリートマガジン』2000年7月号)と語っているように、同点の場面や長いイニングでも河野は起用され、2000年は46登板(63.2投球回)で4勝5敗9セーブを挙げた。こうした中継ぎの能力を買われてオリンピックに選出されたのである。

河野昌人と達川光男監督

 後から考えれば、この2000年が河野のキャリアハイであり、その後は右ひじの故障などで思うような結果が残せずに終わった。河野の活躍があと1年でも早かったり遅かったりしたならば、オリンピック代表に選出されていなかったわけで、何かの運命のようなものを感じる。