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葵の紋が付された、全国唯一の現存天守

 松山城は、全国で12しか現存しない天守を擁する城です。天守だけでも見に行く価値がありますが、合計21棟もの建造物が現存する重要文化財の宝庫でもあります。天守をとりまく本壇の入口周辺にも櫓や門、土塀が多く残ります。復元された建造物と合わせて、かつての姿を目の当たりにすることができます。

 天守は三重三階地下一階の層塔型で、大天守・小天守・櫓を多聞櫓でつないだ姫路城と同様の連立式天守です。1602(慶長7)年に築城を開始したのは賤ヶ岳七本槍で知られる加藤嘉明ですが、現在の天守が築かれたのは1854(安政元)年のこと。嘉明が建てた五重の天守は松平定行によって1642(寛永19)年に三重に改築されました。

正面が現存する天守
葵の御紋が付されている
天守最上階から見下ろす本丸

 その天守も1784(天明4)年に落雷により焼失したため、1820(文政3)年に再建工事が開始され、35年を経て完成。城主の松平家にちなみ、現存する天守で唯一、瓦に葵の御紋が付されています。

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四面楚歌の通路、射撃面が変わる狭間など工夫が満載

 本壇と呼ばれる中心部は、天守を中心に多種多様な櫓や城門が華やかに取り囲み、それらが高い石垣でぐるりと囲まれています。本壇内は、一の門から入り90度左折して二の門をくぐり、180度方向転換することでようやく三の門に到達する、迷路のようなつくり。似たような門や櫓に囲まれ、同じところをぐるぐると迷いながら歩きがちなのがこの区域です。

 視界を最小限に狭めざるをえない細い路地のような閉鎖的な小道が続くのですから、四面楚歌とはまさにこのこと。しかし櫓からはそのようすが丸見えで、迎撃する城兵がいかに優位かがわかります。

櫓から見下ろす、迷路のような本壇内
紫竹門。左が紫竹門西塀

 紫竹門前の通路も秀逸です。紫竹門西塀の狭間の向きが途中から入れ替わっているのは、裏手から侵入された場合に攻撃面を変えるため。敵の進路でありながら城兵の攻撃陣地にもなる、臨機応変な構造になっているのです。城は方向感覚を乱されるものですが、松山城はとくにその効果が絶大といえるでしょう。