内申書重視の評価
こうした思考回路は、近年日本ではあたりまえの物差しとなっている内申書重視の教育にあるのではないだろうか。戦後から昭和の終わりに至るまで、日本の教育は詰め込み型といわれた。得点が高いことが、成績が良いとされた。点数は雄弁だ。1点の差が人生を分ける。実力主義の典型である。
ところが内申書が重視されるようになると、評価は絶対評価から相対評価に移行した。内申書評価は一見すると生徒のいろいろな側面を評価できると思われがちだが、こうした評価方法はともすると人気ランキングになる。つまり人より少しでも良く「見られたい」になる。点数主義のときは人よりも良いですんでいたのが、総花的に「きれいにみえる」「いい子にみえる」でなければ、上位に届かないことになる。
こうしたイメージランキングが幅を利かせ始めると、なるべく良い学校に入って、今良いと思われる会社に就職して、社内でなるべく失敗しないように恙なく生きて、みんなが良いと思うタワマンを買って、子供をさらに同じレールに乗せて、自分たち家族のポジションを守ろうとすることになる。
国内ランキングばかりを気にしている場合ではない
こうした人生選択に何の冒険もスペクタクルもない。「小さな幸せ」を追い求めて常に「見てくれ」を気にするのが日本人のスタンダードになってしまったようだ。そして、あらゆるランキングの変遷にどぎまぎしながら、少しでも相対的に上級国民様のグループに入部できるように頑張ることに人生の多くの時間を費やしているように見える。
五輪のメダルは、ランキング大好き日本人の「良く見られたい」症候群の究極の姿なのかもしれない。だが五輪はともかく、令和日本は、厳しい競争を続ける世界の政治、経済から周回遅れになりつつある。経済大国などと言っていたのは既に過去の話。労働生産性も低く、一人当たりGDPでも先進国の中で下位に低迷する国に成り下がっている。
国内ランキングばかりを気にしている暇があるならば、五輪だけではない世界ランキングに目を転じるときが来ている。五輪終了後の日本に迫りくるのは、経済面を中心とした観たくもないランキングの数々となる。そろそろ多くの国民が自覚すべき時が来ている。