初めてのラーメンズは、過激で差別的なブラックジョークが強く正直私はめんくらっていました。だけど会場からは笑いが起こっている。これは笑いなのか。これは面白いのだろうか。どういう態度を取ればいいのかわからなくなって、混乱していました。ライブ終わり、生まれて初めてアンケートに少しのクレームを書き、それもまた気まずい記憶として残り、そこから何となく私とラーメンズの接点は途絶えてしまいました。
なぜ私は混乱したのか。ブスを笑うネタ、過激な下ネタ……当時はそういうのが当たり前にあって、でもそこに強い「怒り」はありませんでした。怒りというよりは「混乱」と「焦り」だったと思います。自分が「女」であること、「ブスな女」という「笑われる側」であることへの焦り。なんとか「笑う側」に行きたいのに、そうはなれない自分への焦り。
と同時に、当時ジェンダーという概念を初めて知り、幼少期からあった疑問を解消する糸口を見つけたような清々しさも感じていたのです。男は男らしく、女は女らしく。そういうものは後天的に社会が個人に貼り付けようとしている、単なるラベルであることを。
フェミニズムに勇気づけられながら、好きなお笑いの現場にいけばチクチクした感覚を持ち帰ることになる。障がい者を揶揄するネタを、外国人を、ブスを笑うネタを、ちんちんネタを、心から笑えない自分は「お笑いファン」として認められないのではないか。
せっかく見つけた趣味の場所で、どこかで自分が傷つけられるのではないかとビクビクしながら、それを悟られないように淡々と振る舞う癖がついていたように、今振り返ると思うのです。ジェンダーや差別への感覚を麻痺させないと、楽しめないと思ってしまった。
これはラーメンズのネタに限らず、もしかしたらそういう混乱した気持ちで当時のお笑いシーンを見ていた方は多かったのかもしれません。感覚を麻痺させなくなって、我慢しなくなって、2021年にやっと「あれはダメだと思う」と言葉にできるサブカルチャー好きの方もいるのではないかと。 演者自身もそうなのかもしれない。その葛藤に20年以上の歳月がかかってしまった。
間違いが放置され、「熟成」されてしまった
今であれば、例えば芸能人が差別的なフレーズを使えばすぐに批判の目に晒され、演者側はなんらかのアクションを取ることになるでしょう。そしてその期間が短ければ短いほど、傷は浅くて済む。
今回のことがここまで大きな問題となったのは、平和や平等を看板に掲げた国際的なイベントの仕事をするという「公人」の立ち位置というのも大きいでしょうが、それだけではないと思うんです。音楽家が過去の犯罪的とも思えるいじめを公言したこと、演出家が人類史上類を見ない陰惨な事件を笑いのフレーズに用いたこと、それらは長い時間をかけて熟成し、彼らを「カリスマ」に持ち上げる一つの推力としてどこかしら作用してしまった事実。
ダークな一面はサブカルチャーの中での抗えない魅力の一つとして作用、もしくは「でも作品は素晴らしい」というギャップを形成する要因として存在し、その結果彼らが今回のような大きな仕事を任される人気と知名度を下支えしたとも言えるのではないかと。そして同時代に生きる私は、無自覚にその「熟成」に力を貸してきたのです。