助けてほしい。本当はそう叫びたかったはずだ、と私は思った。だけど、それは伝えなかった。なぜなら、彼の「わかりません」という言葉に生きた響きを感じたからだ。彼は明晰で「わかりすぎる」がゆえに、「わからない」苦しさに襲われたときに、助けを求められず、自室に閉じこもらざるをえなかった。いや、夢の中でそうであったように、実際のところ彼は閉じこめられていた。自分で自分を閉じこめていたのだ。そんな彼が「わかりません」と言っている。それは心から発せられた真正な言葉であるように私には響いた。
それから、彼との面接は少し変わった。彼はモノローグをやめ、沈黙することが増えた。わからないものの前でスピードを落とすことができた。私たちは彼の中のわからない部分について話し合うことができるようになったのだ。すると、次にうつがやってきたとき、彼は「どうしていいかわからない」と家族に助けを求めることができた。
ドライアイスみたいな心
忙しいとき、心は亡くなるのではなく、見失われるだけなのだと思う。私が反射神経だけで生きているときも、心は私の奥深いところで、ひそかに息をし続けている。冷凍庫の奥で存在を忘れられたドライアイスみたいだ。
大切なことは、ドライアイスが二酸化炭素を凝固させたものであるように、心にはまだ形になっていない言葉が蓄積され、カチコチに固められていることだ。眠りがそれをほんの少し溶かす。あの彼の分厚い筋肉が緩まり、明晰さがほころぶのは夢の中だけだった。あるいは夢と覚醒のはざまである魂の午前4時にだけ、私は心の中で言葉たちがカタカタと鳴っているのを聞くことができる。朝が来ると、それは日常音にかき消されてしまうにしても。
だから、必要なのはドライアイスを水にひたすことだ。ときどきでいい。すると、ぷくぷくと小さなあぶくが立つはずだ。このとき、水が他者で、あぶくが言葉だ。心の中で凝固している言葉は、他者と交わることで初めて、形になる。たとえば「わかりません」という形を得て、さらには「助けてほしい」という形へと整えられていく。言葉とは自己と他者の二つの心を行き交うことで育つものなのだ。
魂の午前4時。忙しさが一瞬止まって、心と再会する時間。そういうときに、私たちは言葉が他者を求めていることに気がつき、立ち止まる。そして、誰かと、ちゃんと話をしてみたい、と思っている自分に気がつく。
(撮影:今井知佑/文藝春秋)