そもそも『シン・ゴジラ』でもゴジラの存在は米国と関わりがある。詳しくは説明されないが、米国の関知する海底に投棄された「核のゴミ」を食べた恐竜の生き残りが突然変異してゴジラになったようだ。しかも米国はゴジラの存在を把握しながら、同盟国の日本には伏せていた設定。第1作よりも米国の関与が深いゴジラとも言える。そのゴジラが東京で米軍の攻撃を受け、怒り狂う。第1作が伏せ気味にしていた「反米」の主題がかなり赤裸々になる。かくして想定外の「放射能大まき散らしの場」になる。
しかもそのカタストロフの映像表現が物凄い。放射能の吐きざまは宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』における巨神兵が口から「ブホーッ!」とエネルギーを放射する場面を彷彿とさせる。おまけに背びれからは光線を出し、米軍機を片っ端から撃墜。夜の闇を切り裂く猛烈な光と熱の放出が持続し高潮する場面は「世界破滅の幻影」を表現して余すところがない。ゴジラは「破壊神」とも呼ばれ「GODZILLA」と綴られる。「GOD」が入るのがミソだけれど、そんな怪獣の破壊性をここまで表現した「ゴジラ映画」は第1作を別格にすれば他になかった。特撮監督、樋口真嗣の手柄。それから鷺巣詩郎の音楽も。ゴジラが都心を前進する場面には、キリスト教世界において神の怒りと人間の滅亡のイメージを一身に担ってきたグレゴリオ聖歌『怒りの日』につながる曲が付く。お次の放射能噴出場面に付けられた音楽は深い淵にひたすら沈む哀歌。映像と音楽の相乗作用で、世の終わりの表現はもう完璧。これぞ「終末映画」の真打ち。たたきのめされた。
とはいえ『シン・ゴジラ』はそこで終わらない。筋書きの上では、その段階で壊滅的放射能汚染を被ったのは都心の3区のみとされる。世界滅亡にはほど遠い。ゴジラはというとエネルギーを使い果たして眠ってしまう。第1作なら海に帰って休むのだが、『シン・ゴジラ』では東京駅前で固まる。次に動き出すまでに何とかせねばならない。しかし通常兵器では歯が立たない。米国は東京を巻き添えにしてのゴジラに対する核攻撃を実施しようとする。国家滅亡の危機。でも「ゴジラの怒り」によって首相以下主要閣僚も死亡。日本の正規の国家機構はもはや充分には作動していない。そこで『ゴジラ』の芹沢博士に相当する者が表舞台に出てくる。ただし個人ではない。集団だ。長谷川博己扮する代議士が各官庁から異端的テクノクラートを集めたチーム「巨災対」。ゴジラ退治の新兵器開発に励む。「巨災対」は音楽的には『エヴァ』と結びつけられる。1990年代を代表するそのテレビアニメでは、未来の日本の箱根に建設された第3新東京市が「使徒」と呼ばれる謎の生物に襲撃され、通常戦力ではその撃退は難しく、NERVという秘密機関が突如公然と登場して対処に当たる。このNERVのテーマとして鷺巣詩郎の作曲した特徴的な連打音に導入される音楽が『シン・ゴジラ』の「巨災対」のテーマに引用される。こうして『シン・ゴジラ』は『エヴァ』ともつながる。『エヴァ』のファンには、「巨災対」がNERVに、ゴジラが「使徒」にも見えるだろう。そういえば「使徒」はエネルギー切れでとまってしまうことがあるが、それがまたゴジラと重なる。『エヴァ』は人類の新人類・超人類への進化を物語上の主題としていると思うが、『シン・ゴジラ』のゴジラも変態を繰り返し、それは「進化」と呼称される。そうして『ゴジラ』だか『シン・ゴジラ』だか『エヴァ』だか判然としなくなってくるほどに錯綜した映画は、「巨災対」による東京駅前でのイチかバチかの「最終作戦」に向かう。
『シン・ゴジラ』を論じるためには他にも触れるべき世界が多い。早口主体の演出は市川崑監督の映画であり、膨大な登場人物を動かして私的・家庭的部分などには脇目もふらず突き進むのは岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や『激動の昭和史 沖縄決戦』であり、怪獣映画に日米安保をからめるのは1961年の『モスラ』や1984年の『ゴジラ』であり、カタストロフの描き方には新旧両方の『日本沈没』の影がある、等々。