高石垣に圧倒される、広大な城
悲惨な大事件があったとは思えないほど、現在の島原城には穏やかな時間が流れています。東側には島原湾が静かに広がり、西側には標高約819メートルの眉山がそびえます。もともとこの地は数千年前の眉山の崩壊でできた流れ山のひとつで、かつては四壁山または森岳と呼ばれる山でした。
確かに、4万石の大名の城とは思えない見事で壮大な城です。本丸を囲む屏風折れの石垣だけで、かつての威容が連想できます。天守は1876(明治9)年に解体され、1964(昭和39)年に復元されたもの。なんと、かつての天守台は現在よりひと回り大きなものでした。
城の外郭は約4キロに及び、かつては7棟の城門、三重櫓や平櫓など33棟の櫓が建ち並んでいました。本丸と二の丸を隔てる堀も巨大で、古絵図には双方を結ぶ立派な廊下橋が描かれています。本丸の虎口に据えられた大きな鏡石も、かなりの威圧感。現在の市立第一小学校や県立島原高校一帯が御殿にあたり、城域の広さにも目を見張ります。
最後の地・原城が伝える激戦の爪痕
一揆の鎮圧後、幕府は反乱の拠点としての再利用を防ぐため、原城を徹底的に破却して一揆軍の遺体とともに埋め尽くしたことがわかっています。城内の石垣がかなり崩れているのは、破却の痕跡。隅角の石が崩れているのは、自然崩落ではなく人為的に壊された証です。本丸の櫓台は隅角部がほぼ残っておらず、執拗なまでに破却されたようすがうかがえます。
すさまじく破壊された本丸正門付近では、焼けた門の瓦や石垣の石材のほか、刀傷が入った大量の人骨が土とともに埋められていました。人骨は女性や子供と断定できるものも含まれ、手足が多く胴体や頭部が揃っているものはあまりありません。約3万人の首は、長崎の出島や原城に晒されたと伝えられています。
一揆軍は組織的かつ統制のとれた籠城生活を送っていたようで、等間隔で区画化された半地下式の住居も見つかっています。ガラス製のロザリオや祈りの象徴であるメダイのほか、鉛弾を溶かしてつくった十字架も多く出土。遺物は遺体の顔付近から発見され、命を落とす直前に握りしめたり、口に含んだものと思われます。
島原・天草一揆は、全国の城にも多大なる影響を与え、この「破城」と呼ばれる城の破壊が各地で徹底されたようです。江戸時代初期の破城は一国一城令後に行われたとされるのが一般的ですが、九州や瀬戸内海沿岸の城をくまなく見ていくと二段階の破却の痕跡が見られ、どうやら徹底的な破壊は島原・天草一揆の後だったよう。幕府の命で反乱に備えて強化された城もありました。
撮影=萩原さちこ
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島原城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」9月号の連載「一城一食」に掲載しています。