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「島原・天草一揆」の舞台、島原城と原城 鎖国へ導いた歴史的事件が城に与えた影響とは

2021/09/08

 島原城といえば、連想するのは島原・天草一揆ではないでしょうか。1637(寛永14)年、島原と天草を中心に蜂起した3万7000人の一揆軍が原城(長崎県南島原市)に結集。12万超の幕府軍と対峙し、3か月に及ぶ籠城戦の末に皆殺しにされました。幕藩体制を揺るがし、日本を鎖国へ導く決定的要因にもなった歴史的大事件でした。

 2018(平成30)年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録され、潜伏キリシタンの歴史が始まる地として、原城跡が構成資産のひとつに認定されています。

本丸南東側から内堀越しに見る島原城

豪華な城づくりが一因に

 島原・天草一揆の一因とされているのが、松倉重政による島原城の築城です。1616(元和2)年、原城を築いた有馬晴信の子・直純の代わりに新領主となった重政は、原城を廃城として1618(元和4)年から築城を開始。1615(元和元)年の一国一城令後に江戸幕府に新築を許可された城は珍しく、島原半島における新たな拠点と見込んでの大事業だったようです。

 重政は石高を過大申告し、4万石とは思えない分不相応な城を7年がかりで新築。大幅な増税と過酷な労働を強いられた領民の生活は困窮を極めました。3代・徳川家光にキリシタン取り締まりの手ぬるさを指摘された重政が残虐な拷問を行うと、心の拠り所さえ奪われた領民は追い詰められていったとみられます。

島原城内に建つ、天草四郎の像
島原城の本丸南側の石垣と堀

 後継した松倉勝家はさらなる暴政を行い、非人道的な弾圧を断行。さらに凶作が続き飢饉が発生したことで、領民の不満と怒りはピークに到達したようです。表向きには消滅していたキリシタンが棄教を悔い改めて、再びキリシタン信仰に立ち返りました。一揆に加勢したキリシタンの多くは、一度は棄教した人々だったといわれています。島原・天草一揆は突発的なキリシタンの反乱ではなく、長きに渡る迫害と窮乏の末路でした。