「そうだ、鈴木さん、あの方ご存知だったんじゃないですか?」
先日、久しぶりに私が新聞記者時代に大変お世話になった取材先の広報の方とお話しする機会があった。私が密かに憧れていたその課長も今は広報を離れ、本流のエリートコースを大驀進中なのだが、お世話になった頃には明かされていなかった私の黒歴史(文春砲とかAVとか)は気に留めてくださっていたようで、「会社にいても会社を辞めても話題の中心ですね」と若干皮肉られつつ、「そうだ、鈴木さん、あの方ご存知だったんじゃないですか?」と話題を振られた。
彼があの方、と指したのは先月、過重労働によって亡くなっていたことが幾度も報道されたNHKの女性記者のことである。2013年に亡くなった時の年齢は31歳で、現在34歳の私とは年齢も大変近く、ほぼ同時期に都政報道の担当をしていたことから、その取材先の課長も「うちの部下も鈴木さんと似たような時期にお世話になっていたようで」と、私とその女性記者が仕事仲間だったのではと心配していたようだ。
ちょうど電通新入社員の過労自殺などが大きく報道された後というタイミングもあってNHK過労死報道への人々の関心は高かった。ブラック企業などについてテレビや週刊誌もいつにも増して特集を組んでいる。
過重労働の被害者になっている「私」は想像しにくい
あいにく、私は利害関係のないプライベートの友達は女の子だけ、仕事上の利害あるお付き合いはほぼ男の子だけ、というゲンキンで薄情な人間のため、亡くなった佐戸未和さんとは直接的な知り合いではない。しかし年齢と担当の取材先が似通っている元同業者の死が労災認定されていたことは、私にとっても少なからず気になる報道だったし、周囲の人間も記事を見て私を連想した人はいたようで、ある人は「君も死んでいたかもしれない、記者なんて辞めて良かったのかも」というような内容のメールをよこした。
確かに私がのうのうと生きていて別の人が亡くなったということに必然性などないのかもしれないが、仮に私がそのまま新聞記者として働いていたと考えてみても、過重労働の被害者になっている自分というのが想像しにくいのも確かだ。
給料は成果への報酬か、苦痛の対価か
常識的に、私たちは仕事で得る収入、つまりお給料について大体二通りの感覚を持っている。お給料を自分の労働による成果への報酬と捉えるか、苦痛の対価と捉えるか。そして、もちろん生き生きと仕事をして自己を華々しく実現する人に前者の感覚が共有されている場合が多いのだが、反面、過労で倒れたり、追い詰められたりする人もその感覚を持っていることは否定し難い。
そして、どちらかというと後者の感覚が強く、お給料に対してどれだけの我慢が見合うかということを常に考えている私のようなタイプの人間は、仕事で成功する道も狭いが仕事に追い詰められることも比較的少ない。私の関心は、いかに職場での居場所を失わない程度にうまくサボって、しっかり仕事している人と同じだけの給料をもらうか、ということに偏りがちだったし、だから仕事を面白いとか楽しいとか、そんな感覚なんてなかった。
ただ、私の方がカノジョたちより幸福だなんて言えるんだろうか。死ぬほど働いてみたいなんて言ったら怒られるけど、でも死ぬほど疲れていることに気づかないほど入れ込んでできる仕事を持つのは、かわいそうなことなんだろうか。程よく、身体を壊さない程度に、ワークライフバランスを考えて、入れ込んで、思いっきり、楽しみながら、泥臭く、それなりに一所懸命……働くことを彩る言葉は多いが、どれもこれもしっくりこない。どうせ同じ給料だから、と手を抜かないで、死ぬくらい真面目にやればよかった、と時々思う。でも死んでしまったら好きな仕事もできないし、手を抜いて上手いことやるくらいでちょうどよかったんだ、とも思う。