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鵜久森淳志、石井裕也、森本稀哲…秋の鎌ケ谷で目撃した“いくつかの事件”

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/09/29

 本当なら今回頂いたスペースには、斎藤佑樹投手のことを書きたかった。プロ11年目のシーズンを終えようとしている佑ちゃんについて書きたいことはたくさんある。ただそれは、今どんなピッチングをしているのかこの目で見てからだと思った。

 右肘の故障が癒え、実戦で投げ始めて以降、何回か鎌ケ谷の試合に足を運んだがどうしても登板とタイミングが合わなかった。残念ではあるが、これも縁なのだろう。どんな状況でも、回って来た打席を務めるのが文春野球ライター。別のテーマに切り替えていく。

「今年も『赤とんぼ』が飛び始めたなあ」とは、球界でよく聞く言葉だ。半年に及ぶペナントレースが大詰めを迎え、優勝争いで沸いているチームとそうでないチームははっきり彩りがわかれる。さらに来季のチームづくりを目指した動きも加速する。ドラフトで新しい選手を指名する一方で、それだけの選手が球界を去っていく。2軍のグラウンドを見つめていると、そんな動きにもどうしても目が行ってしまう。

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戦力外となった鵜久森のもとに現れた“最高の練習相手”

 あれは、鎌ケ谷が今よりずっと自由だった頃だ。新型コロナウイルスなんてものは影も形もなく、試合を終えて寮に戻る選手へ、ファンも自由に声をかけていた。2015年の秋、鵜久森淳志外野手のプレーが気になった。心ここにあらずのように見えたのだ。

「気持ちって大事ですよね。トレード期限が過ぎたら、なんだか緊張の糸が切れちゃって……。9月はヒットを1本しか打っていないんじゃないかなあ」。2004年春夏の甲子園を沸かせた済美高校の主砲は、28歳になっていた。この年、1軍出場はたった3試合、2打数無安打が全て。2軍では10本塁打を放ったものの、高卒5年目くらいまでの選手が主体となる日本ハム2軍のラインナップでは、残念ながら異色の存在となっていた。そして10月になった頃だったか、戦力外通告を受けたという記事を見つけた。

 どうしても、プロ生活を続けたかった。済美高時代の恩師、故・上甲正典監督との約束があったからだ。「15年やって一人前」という言いつけを守りたかったのだという。2005年にダルビッシュ有投手と共に入団した鵜久森は当時11年目を終えたところ。プロ野球合同トライアウトを受験し、わずかな可能性にかけることにした。

鵜久森淳志 ©文藝春秋

 ところが困ったことに、戦力外となった選手には練習相手がいないのだ。チームの好意により球団施設で練習はしていたものの、若手選手は宮崎での教育リーグに行ってしまった。トライアウトは投手との対戦形式で行われる。マシンの球をいくら打っても、投手が投げるボールとはキレも伸びも違う。困った、このままでは目を慣らしておけない……というところに、救世主が現れた。

「投げてあげるよ」という言葉の主は、この年自己最多タイの51試合に登板したサウスポー、石井裕也投手だ。鎌ケ谷の屋内練習場は当時、シャッターさえ開いていれば道路から中の様子をうかがうことができた。ある日、ほとんど誰もいない鎌ケ谷をのぞいてみると、練習場から打球音が響いていた。2人の極上の対決を眺めることしばし、現れた鵜久森は「最高の練習ができましたよ」。他球団に求められるなら、対左の代打としてしかない。そのためにやれることはやりきったという顔をしていた。果たして静岡・草薙球場で行われたトライアウト直後に、ヤクルト入りが決まった。

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