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鵜久森淳志、石井裕也、森本稀哲…秋の鎌ケ谷で目撃した“いくつかの事件”

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/09/29
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「絶対に打席に立たないといけないと思っていた」

 こんな過程を経て入団した選手にとって、大事なのは「最初」だ。何をできるか早々に示せなければ、座るイスは空かない。その点、鵜久森は凄かった。2016年は開幕1軍を果たすと、開幕早々に阪神・岩田から本塁打。左キラーとしてのポジションをつかんだ。さらに翌2017年は開幕直後のDeNA戦で、史上16人目の代打サヨナラ満塁弾というド派手な一撃を放ったのだ。日本ハム時代の本塁打も、ソフトバンクの杉内や山田ら左投手から打ったものばかり。狙った“左殺し”の座をみごとにつかんだ。

 ただ、この世界のイス取りゲームはし烈だ。そして歳をとればとるほど、そこから追い出される可能性も高まる。2018年の秋、鵜久森は2軍にいた。シーズンが終わろうというころ、鎌ケ谷で日本ハム戦が組まれていた。

 スタメンを外れた鵜久森に、高津2軍監督から代打のお呼びがかかったのは試合終盤のこと。7回、日本ハムのマウンドに立っていたのは引退を決めた石井裕也だ。3年前の秋のことが、すぐに頭をよぎった。鵜久森は「僕はあの時のことがあるから、絶対に打席に立たないといけないと思っていた」と直球勝負に応えたものの、最後はスライダーを打ち損じて一ゴロに終わった。

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 そして恩人・石井を見送った鵜久森もそのオフ、2度目の戦力外通告を受けた。現役14年。目標には1年及ばず、甲子園を、そして鎌ケ谷を沸かせたアーチストは現役を退いた。現在は生命保険の営業マンとして活躍している。

明るく、鎌ケ谷を去っていった森本稀哲の“引退試合”

 明るく、鎌ケ谷を去っていった男もいる。森本稀哲だ。帝京高から1999年に入団した“松坂世代”の一員は鎌ケ谷で腕を磨き、2006年には日本一のファイターズで定位置を奪った。FA移籍した横浜では残念ながら活躍できず、2014年には西武へ。初めての一塁守備にも取り組み、自分の居場所を作っていった。

 翌2015年、出番の減った森本は引退を決めた。9月27日、1軍の楽天戦が引退試合となり、終盤8回表から守備固めで出場。西武のリードで迎えた8回裏の攻撃は、1番からだった。森本が入っていたのは7番。西武の他の選手が「稀哲さんに回せ」と一致団結。現役最後の打席を回した名場面が知られる。

 ただその前に、日本ハムとの2軍戦で訪れた鎌ケ谷でも、事実上の引退試合を戦っていた。

 新聞で引退が報じられた直後、9月19日の鎌ケ谷で8回に代打出場。打席に向かうところで、スタンドからは温かい拍手が送られた。森本がまだ何者でもなかった頃から見守ってきたファンもいたことだろう。そして裏の守備では一塁に就いた。試合後には「ここでまた、内野を守って終われるなんて思わなかった。本当に良かった」。一片の曇りもない、すがすがしい顔で言った。

 森本はそもそも、遊撃手として入団し、鎌ケ谷のグラウンドで鍛え上げられた。ある時、島田一輝の故障でたまたま外野を守ったことから運命が開け、気が付けばゴールデングラブ賞3度の守備の名手となった。それが最後に、汗も涙も流したはずの鎌ケ谷の内野へ戻ってきた。本人も、長く鎌ケ谷のスタンドに座り続けるファンも、野球の神様の存在を感じた出来事だった。

 この季節、鎌ケ谷に限らず各球団2軍のグラウンドには、いくつもの“事件”が転がっている。決して大きく報じられることはないし、当事者以外にはなかなか伝わらない。ただこれも、プロ野球の歴史の一部だ。別れを見届けることもファンの権利。何が起ころうとも、しっかりと目に焼き付けておきたい。ド平日の昼間に、突然発生してしまうのがネックなのだが。

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