ヴィルヌーブ監督が『パリ、テキサス』を意識していた可能性
恋「旧ブレランと同時代の傑作ですね! ナスターシャ・キンスキーがすごくきれいだった……」
小「そうそう。この映画では家族3人が最初はバラバラやけど、失踪していた父親が息子と再会することで物語が動き始める。父親は息子との関係を取り戻し、一緒に母親を探す旅に出るんや。父親は風俗店で働いていた母親を見つけ出し、マジックミラー越しに長い対話をする。そして『やっぱり家族3人では暮らせない。妻を愛しすぎ、束縛してしまうから』と思い至るんや。そやけど、父親の務めとして、息子の居場所を母親に教え、2人を再会させる。そして自分は1人で去っていく、というストーリーや」
恋「確かに『2049』も、デッカードと娘をKが見つけ出して再会させるけど、3人が一緒に会うことは決してない。ロードムービーであることや、ガラス越しの再会であることも同じですね」
小「確証はないけど、ヴィルヌーブ監督が『パリ、テキサス』を意識していた可能性はかなり高いと思うで」
Kとデッカードの娘との間には、血縁以上の強い結びつきがある
恋「だけど、そうするとKも『デッカードの家族の一員』ということになりません?」
小「その通りや。少なくともK自身はそう考えていたと思う。いや、それを『自分自身の物語』として主体的に選び取った、と言った方がええやろう。確かにKの記憶は偽物で、デッカードとも娘とも何の血縁関係もない。工場で生まれた孤独なレプリカントや。そやけど、Kはデッカードの娘と記憶を共有している。『記憶』というのは、煎じ詰めれば『自分はどのようにして生まれ育ち、なぜ今ここにいるのか』という物語であり、自分自身のアイデンティティーに他ならない。それを共有しているということは、Kとデッカードの娘との間には、血縁以上の強い結びつきがある、と言えんやろうか」
恋「なるほど……」
偽の記憶をベースにし、Kの内面だけで成立する「バーチャル家族」
小「そしてKは『デッカードが自分の血を分けた子のために作った木彫りの馬を、自分がすごく大切にしていた』という記憶も持っている。その記憶は確かに本当ではないけれど、生々しいリアリティーがあり、自分自身のアイデンティティーとして信じ込むことはできる。つまり、Kは最終的に『デッカードは自分の父親であり、デッカードの娘は自分の妹や』という物語を自らの意志で選び取り、その物語を信じて生きることにしたんやと思う」
恋「自分の記憶がまがい物=フェイクに過ぎないと分かっていても、それを信じざるを得ないなんて、切ないですね……」
小「偽の記憶をベースにし、Kの内面だけで成立する『バーチャル家族』という所やな。オレはKにとってのジョイも、本質的には恋人というよりも『母親』やったんやと思う。Kに『あなたは特別な存在なのよ』とささやきかけて、『ジョー』という名前をつけたのはジョイやからな。ジョイはいつもKに優しく、Kに対してひたすら献身的や。『恋人』と考えると男にとって都合の良すぎる存在やけど、『母親』と考えたら自然な振る舞いに見えてくる。前作のブレランは、デッカードとレイチェル、ロイとプリス、という男女の愛の物語やったけど、『2049』は家族の物語なんや、というのがオレなりの結論や」
恋「小石さんの説を聞いて、やっと私もKに感情移入できるようになってきましたよ。ところで、小石さんは先日『2049を見て、デッカードがレプリカントか人間かの結論が出た』『なんで前作の最後で、ロイが恋人や仲間の仇であるデッカードを助けたのか分かった』と言っていましたよね。あれはどういうことですか?」
小「オレの個人的な解釈では、デッカードは間違いなく人間や。理由は、ウォレス社の社長は、デッカードの娘をのどから手が出るほど欲しがっていたけど、デッカードについては『娘の居場所を知るための情報源』としか見ていなかったこと。もしもデッカードもレプリカントやったら、『生殖機能を持つレプリカントの1人』ということになり、社長はデッカードの体も自分で徹底的に調べようとしたはずや」
恋「なるほど。じゃあ、ロイがデッカードを助けた理由は?」