「君の名は。」は聖霊の物語
――この本の中で、もう一つ大きく扱われるアニメが新海誠さんの「君の名は。」です。
「君の名は。」、公開当時は映画館で見られなかったんです。映画館に行く暇がなくて、見ようと思った時には上映が終わってしまっていた。初めて見たのは公開からしばらくたって、飛行機の中での視聴だったんですが、往復で計3回見ました。新海ファンになってしまいました。2年ほど前には新海さんの出身地である長野県に旅行もしましたね。「あっ、映画と雲の出方が同じだ」って思ったりして。だから「天気の子」は、公開が始まってすぐに観に行きました(笑)。
私にとって「君の名は。」は聖霊を色々な形で表現した作品に見えるんですね。始めてみたとき、その光のイメージに驚きました。キリスト教の歴史の中で、聖霊はいろいろな形で表されるんですが、その一つが光なんです。また「君の名は。」は愛や絆が描かれている作品ですが、聖霊は一人に宿るものではなくて、網の目のような、人と人との関係性であるとも表されます。
本の中ではもう少し複雑な議論をしているのでぜひ読んでいただきたいのですが、私にとって「君の名は。」は現代における関係性の哲学を表しているように見えるのです。私が新海さんにこだわるのは、この関係性が、倫理学が成立するうえでとても重要であるのに軽視されがちだと思うからなんです。
倫理は実践、哲学は知識
――そもそも「倫理」と「哲学」はどう違うのでしょうか。
高校には「倫理」という科目がありますが、これは心理学や宗教、哲学も含む、広い概念ですよね。でも伝統的には、倫理は哲学の中に含まれます。哲学という言葉は理論哲学と、実践哲学の両方を意味している。そのうちの実践哲学を「倫理」と呼ぶんですね。そして特に社会からの要請で、規範性を持ったものが「道徳」と呼ばれます。
倫理の方が哲学よりも人間の匂いがするんですね。抽象性は人間離れなのです。とはいえ抽象性が悪いわけではありません。抽象化するから、知識として共有することができる。知識になれば、言語や地域などさまざまな壁を超えて伝えることができて、それを使って他人とコミュニケーションを取ることが可能になる。具体的なものと抽象的なもののつながりが見えてくると、抽象的な問いも虚しくなくなります。
倫理学は世界を味わうためにある
――最後に、山内先生にとっての「倫理学」とは何でしょうか。
倫理学は、世界を味わうための能力、在り方ではないかと思います。「倫理学」というハビトゥスを身につけることで、世界を味わうことができる。ハビトゥスというのは私がよく使う言葉で、立居振る舞いと言い変えることもできます。我々は日々、意識したり、考えたりしないで、反射的に動くことができますよね。行動や思考が身体化して、ハビトゥスになっているんです。そしてハビトゥスは、「わかる/わからない」の手前にあるものです。
タイトルの『わからないまま考える』は、まさにハビトゥスのことを言っているんです。「わからなさ」を大切にすることは、未来との関わり方とつながっています。先の見えない、未来を迎え入れるためには、わからないままでも関わり続けていく、という姿勢が必要ではないでしょうか。
倫理学は音楽にも似ていると思います。音楽を聴くと、何かわからないけれど感動するということがありますよね。「ラテン語で書かれた、スコラ哲学の分厚い哲学書を読んで何が楽しいのか」とはよく言われることです。でも、こういう本をちゃんと読んで、わかるようになると楽しいんですよ。音楽が役に立たなくても喜びを見出せるように、人々が一生懸命作り上げた思想を味わう、そのこと自体がなかなか楽しいものなんです。思想がメロディーになって紙面から響いてくるようになります。この本を通じて、そんな感じ方を「わからないまま」味わっていただけたらと思います。
(写真=佐藤亘)
山内志朗(やまうち・しろう)
1957年、山形県生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。新潟大学人文学部教授を経て、慶應義塾大学文学部教授。専門は中世哲学、倫理学。その他、現代思想、修験道など幅広く研究・執筆活動を行う。著書に『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)、『普遍論争——近代の源流としての』(平凡社ライブラリー)、『小さな倫理学入門』(慶應義塾大学出版会)、『目的なき人生を生きる』(角川新書)、『過去と和解するための哲学』(大和書房)、『新版 天使の記号学——小さな中世哲学入門』(岩波現代文庫)、『自分探しの倫理学』(トランスビュー)、『無駄な死など、どこにもない——パンデミックと向きあう哲学』(ぷねうま舎)、編著に『世界哲学史』シリーズ(ちくま新書)ほか。