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横尾忠則さん「僕らの共通項。それは反骨精神だった」

 和田くんの日記、19歳の最後の頁に「3万円の蛙 1等が俺だった。ひどくうれしい」とあるでしょう。興和新薬のデザインコンテストなのだけれど、実は僕も応募していて、佳作だったんですよ。和田くんと出会う4年くらい前かな。この時初めて、僕は1等の「和田誠」という男の名を知ったんです。

横尾忠則さん ©文藝春秋

 日記の中で、高校生の和田くんが友達から来る年賀状を一枚一枚克明に模写しているのには驚きました。もっともおかしいのは、一つ一つに短評をつけている。もうすでに評論家ですよ。これがなかなか的確で、そのくせ辛辣で。

興和新薬のデザインコンテストで和田誠さんが1等に(右上のイラスト)

 多摩美に入ってからは、日本のデザイン史を築いた杉浦非水らのことをクソミソに批判しているでしょう。言ってしまえば時代遅れの先生たちですから、偉いなと思いました。そして何よりそういった反骨精神・批判精神が10代ですでに備わっていたんだと。

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 僕にはそういった面を一切見せなかったんだけれど、周囲に話を聞くと、彼に怒られた人がいっぱいいるようです。でもね。彼は自分の利益を考えて怒ったりする人じゃなかった。物を言うのは、必ず地位や名誉に執着する先輩や編集者に対してでした。仕事を持ってくる編集者に物を言うなんて、普通は怖くてできないですよ。

和田夫妻を横尾さんが雑誌「本の特集」の表紙に描いた

 僕みたいな環境で育ったハングリーな人間が反骨精神を持つならまだしも、恵まれた環境で育った彼がこうした反骨心を持っているのも面白い。日記を読んでいて、僕とは家庭環境がずいぶん違うなと思いました。毎日映画館に行ってレコードをコレクションして……。

 兵庫の田舎にいた僕は、当時LPなんて見たこともなかったから。こうしてまったく異なる青春を過ごした2人が、数年後に出会い親友に近い状態にまでなるのだから、不思議なものです。

ヨーロッパ旅行のスケッチ

 和田くんは物にも執着しなかった。いつも荷物は持たずスケッチブックとペンだけ。若い頃一緒にヨーロッパ旅行へ行った時も荷物は少なかった。

篠山紀信さん・横尾忠則さんとヨーロッパ旅行へ。往路の機内のさりげない一コマを描く
アムステルダムの空港。1964年の東京オリンピック期間中、3人は3週間で6カ国を巡った

 旅の途中、和田くんは風景をスケッチして、僕はコースターや看板などのデザインを模写しました。和田くんはそのスケッチにすごく関心を持ってくれたんです。

 でもロンドンで乗ったタクシーにそのスケッチブックを忘れてしまったんですよ。それを和田くんは生涯残念がってくれました。彼のスケッチは今も残っているから羨ましいなぁ(笑)。