松坂大輔、引退。

「平成の怪物」と呼ばれ、数々のタイトルと栄冠を手にしてきた大投手が、2021年10月19日、マウンドに別れを告げた。引退登板から2週間以上が経った今もその余韻が覚めない。

 松坂が我々に、そして時代に与えた衝撃の大きさは途轍もない。

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 1998年の甲子園での出来事は、例えば準々決勝・PL学園戦での延長17回250球完投も、その翌日にテーピングをはがしてマウンドに上がった姿も、決勝・京都成章戦でのノーヒットノーランも、どれもが衝撃的だった。

 1980年生まれの代は、今でも(ときに野球界を超えて)「松坂世代」と呼ばれる。時代のアイコンとして、その世代を常に引っ張り続けた松坂大輔が時代に与えた影響は果てしなく、23年の時を経てなおあの衝撃の大きさは人々の心に深く刻まれている。

松坂大輔

 松坂大輔の影響を大きく受けた人が文化放送にもいる。斉藤一美アナウンサーだ。

 長らく文化放送スポーツの顔として活躍してきた斉藤アナ。歯切れのいい語調、緻密な野球観、動きを伝える正確な描写、空気感を伝える声色。とことんライオンズを偏愛し、ときに絶叫、号泣しながらの実況は文化放送ライオンズナイターの名物だった。

「しなやかな青き刃」、「投げる金剛力士像」、「セクシーショートストップ」。選手につける二つ名も、ラジオという想像の媒体ならでは。小気味よい実況の声と球場の歓声が織りなすハーモニーは、単なる野球実況の枠に収まらず、それ自体が芸術だった。

 実況アナウンサーとして唯一無二の絵を描いてきた斉藤アナだが、2017年シーズンからはスポーツの現場を離れ、現在は「斉藤一美ニュースワイドSAKIDORI!」のメインキャスターとして活躍している。

 スポーツの現場を離れて5年。その斉藤一美アナが松坂引退登板試合の実況をすることになった。あの大舞台に実況として戻ってきたのだ。

 報道ワイドのメインを務めるアナウンサーが、なぜ、メットライフドームの実況席に座ることになったのか。いきさつを聞いた。

「僕から言いました。引退が新聞に出たところで、せめて試合後のセレモニーだけでも実況できないかなぁと思いついたんです。普通に考えたらSAKIDORIの放送が17時50分まであるから試合は無理。その時は引退登板があるかどうかも分からなかったし。でも試合後のセレモニーになら間に合うかなと」 

 斉藤アナは続ける。

「この5シーズン、実況はしていないけれど、彼のデビュー戦もそうだし、彼の日本にいる間の試合はまぁまぁ喋ってきた。彼がいることで懸命に自分の技術や野球観を磨いてきたという自負もある。過去にいろんな選手の引退セレモニーを喋ったのでノウハウは分かっている。喋れるし、僕には喋る資格があると思ったんです」

 面白いものに鼻が利く鈴木敏夫チーフプロデューサーが「じゃあSAKIDORIごとメットライフドームからやればいいよ」と即断で答え、セレモニーだけでなく試合開始から実況するように決めた。山田英俊スポーツ部長もGOを出した。斉藤アナの懇願に近い提案は、すんなり受け入れられた。

「このままでは松坂に負けてしまう」

 それほどの想いを抱く原点、それは1999年4月7日、松坂大輔プロデビュー戦にある。この試合の実況を担当したのが斉藤一美アナだった。

「デビュー戦の実況を担当したのは単に勤務がついていたから(笑)。当たったのはホントに偶然。そもそも松坂のデビューは開幕2戦目が予定されていた。それを東尾監督が開幕4戦目、4月7日の東京ドームに変えたんです」

 1999年、西武ドームに屋根がついた元年。開幕カードは土日の2連戦だった。開幕投手はエースの西口文也。その次、2戦目の日曜日に松坂をデビューさせることは堤義明オーナーの悲願だった。それを東尾監督が撥ねつけた。

 4戦目の方が相手投手の力が劣る。そして、マウンドの高い東京ドームの方が、松坂のような投げおろす速球派に向いている。すべては松坂にいいスタートを切らせたいという思いだった。

「開幕戦前日の公式練習の取材に行って、東尾さんが『松坂は4戦目』と明言した。ぞくぞくしましたよ。俺かぁ、ラッキーだなぁと。当日が来るまでずっと緊張していたのを覚えています」

 かくして、スポーツ実況3年目、ライオンズナイターの実況2年目の若武者・斉藤一美に松坂デビュー戦実況の大役が巡ってきたのである。

 1999年4月7日、東京ドームでの日本ハム対西武2回戦。斉藤アナは夢中で実況した。松坂のプロ第1球目、井出竜也への149キロストレート。片岡篤史へのあの155キロインハイのストレート。そして、胸元際どいボールに激高したフランクリンをマウンドの上で迎え撃とうとした姿勢。

 そのすべてに斉藤アナは魅了された。

「あんなすごいものを見せられて、本気でやらないと罰が当たると思った」。その時の心境を斉藤アナはこう語る。

「これから松坂大輔を何度も喋るかもしれないのに、今までのような野球への接し方では圧倒されて松坂に負けてしまう。野球というとてつもないコンテンツの荒波に飲まれて溺れてしまうな、と。このままでは、喋り手としても人間としてもダメになってしまう気がした。松坂デビュー戦を喋った経験を無にしてはいけない」

 松坂のデビュー戦は、斉藤一美のアナウンサー人生を大きく変えた。

「それまで『とんカツワイド』を4年間やったけれど、不本意な終わり方で。スタッフみんなが面白くしようとしてくれたのに、僕自身のレベルの低いプライドの高さ、『俺は俺であれ』みたいな。そっぽを向いていた時期があったんですよ。みんなと馴染もうとしなかった。なんで僕はそんな優秀なスタッフに背を向けたんだろうと悔いを持ちながら終えたんです。だから『とんカツワイド』が終わってスポーツに異動になっても、なるべく早く戻って冠ワイドを持つと思ってやっていました。スポーツの仕事は腰掛け。あくまでも仮住まいで一軒家は買っていない、そんな風に思っていたんです」

 それが、松坂のデビュー戦を目の当たりにし、仕事に対する姿勢を考えさせられた。

「もう頑張るしかないなと。本気を出して実況と向き合おう。ワイドを持つ目標は一旦封印して、野球をがっつり勉強しようと思ったんです」

 松坂の衝撃がもたらした心持の変化は、行動に現れる。

「取材をしっかりやって、人の話を聞いて、解説の話を日記に記した。そうすると『野球観ノート』ができた。山崎裕之さん、東尾修さん、西本聖さん……それぞれの解説者のページを見返せば次の中継に生かせる。そうすることで野球中継がうまく回り始めた。選手に直接話を聞くから、なんであの時あのプレーをしたのか、意味が分かるようになった。選手の考え方が分かるから実況にも深みが出る」

斉藤一美アナウンサーが手にするのは、松坂だけの記録をつけた資料。こうした資料のつけ方を見た上層部が斉藤アナを報道ワイドに抜擢したという話も。 ©黒川麻希

 さらに続ける。

「完全描写を是としてやってきたけれど、限られた時間の中に言葉を詰め込もうと思うと滑舌が良くなければならない。そのための練習方法も考えた。結果的にアナウンサーとしてのスキルが上がった。松坂大輔のデビュー戦を実況させてもらったことですべてが変わったんです。それまでが甘かった。本気を出したらこんなにやることがあるのかと」

 松坂の圧倒的な存在感に触れ、それを己の言葉で伝えたいと思った。伝えなければならないと思った。伝える技量を持ち、磨き続けなければいけないと思った。その後の斉藤一美は松坂大輔によって作られたと、本人も言い切る。まさしく人生が動いた瞬間だった。

 だから、その感謝を伝えるために、最後も喋りたいと思った。

斉藤一美アナの資料には、登板成績、打者との対戦成績などはもちろんのこと、バッテリーを組んだ捕手や球審別の成績までこと細かく記されている。 ©黒川麻希