夕日に照らされたあの日の岡林
92年、そして93年の西武とヤクルトの激闘は92年が西武、そして翌93年はヤクルトが日本一に輝き、いずれも4勝3敗で第7戦までもつれ込む激闘となった。この年の両チームの戦いを描くべく、僕は両チームの関係者のべ50人にインタビューを敢行。『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)という本にまとめた。この本の中で、夕日に照らされる岡林について、僕は次のように記した。
岡林は一塁側ベンチからその光景(筆者注・森監督の胴上げ)を見つめていた。ダッグアウト最前列で、真っ直ぐ、前を見据えていた。そこに涙はなかった。「今、この光景を目に焼きつけておかなければいけない」、岡林の胸中にあったのはそんな思いだった。
この場面のことは岡林もハッキリと記憶しており、「今後のためにしっかり見ておこうと意識していた」と振り返ってくれた。結果的に岡林は翌年からは右肩痛に苦しめられ、現役引退まで本来の調子を取り戻すことはなかった。しかし、ヤクルトナインはこのときの悔しさを胸に、翌年に見事に日本一に輝くことになる。92年の悔しさがあればこそ、93年の栄光の瞬間があったのだと言っても、過言ではないだろう。
「切り替え」とは目を背けるのではなく、直視すること
21年日本シリーズ初戦――。ヤクルトにとっては実に後味の悪い幕切れとなった。しかし、試合後の村上は実に堂々としていた。歓喜に沸くオリックスナインを前に、真っ直ぐ、前を見据えて、ゆっくりとペットボトルを空にしていた。
それは、気持ちをリセットするためのある種の「儀式」のようなものだったのかもしれない。ショッキングな出来事が起こったり、意に沿わぬ結果を迎えたりした場合、「切り替えが大事だ」としばしば言われる。「切り替え」とは、目の前の現実から目を背けることではなく、あえて直視することなのだと、僕は92年の岡林から教わった。
あれから29年の歳月が流れた。同じく日本シリーズの大舞台で、僕は同じことを村上から再び教わることとなった。悔しくて、悔しくて仕方のない敗戦だった。相手に勢いづかせるイヤな負け方だった。しかし、敗戦の中から何を見つけることができるのか? どうすれば、次なる勝利への布石を見出すことができるのか?
「村上は大丈夫だ。その村上のいるヤクルトも大丈夫だ」
そんな視点で考えたとき、この日の村上の姿は神々しささえ感じさせる立派なものだった。ショックではあったけれど、「村上は大丈夫だ。その村上のいるヤクルトも大丈夫だ」と、無理やりにでも思いたいと僕は考えた。そして、その翌日の第2戦では、高橋奎二のプロ初完封という見事な勝利で、前夜の悪夢を払拭したのだ。
第2戦での村上は4打数1安打だった。アウトにはなったけれど、2回表のサードゴロは間一髪のタイミングだった。常に全力プレーを心がけ、貪欲に勝利を欲している村上が四番に座っている限り、ヤクルトは大丈夫だ。第3戦からは東京ドームが決戦の舞台となる。すでに初戦の悪夢は払拭されている。今日から、どんな戦いが待っているのか? やはり、日本シリーズは面白い。
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