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「和久井さん、いまはマトモな商売をしているんでもう、勘弁してください」

「そうだよな。なら借金はどうするんだ? 最後にコレだけは請負え」

 和久井の事務所に東声会の幹部が押しかけてきたのは、その数日後のことだ。山田政雄に助けを求めたに違いない。

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「話は聞いてるよ。本人は嫌がってるんだから手を引いてくれないか」

「おたくが代わりにカネを返してくれるんなら手を引きますよ」

 借金の返済方法としてシャブの密売を背負わされているとは説明していなかったのだろう。山田政雄は不義理を良しとはしなかった。

「なぜ全ての事情を話さないんだ? ウチは覚醒剤は扱わない。もうお前に会社は任せられない。身を綺麗にしてから出直して来い」

「ならイメルダを口説いてみろ」

 カタギの道は閉ざされた。もちろん山田政雄の後ろ盾もない。八方塞がりになったやり場のない気持ちを渡辺はぼやく。

「どうしたもんですかね、和久井さん……」

「世の中には筋目ってのがあるんだ」

 そのとき和久井は、渡辺が影下のマー坊と頻繁にフィリピンに行っていたことを思い出した。

「お前、フィリピンに人脈があるのか?」

「友達がイメルダと懇意にしていますよ」

 マルコス大統領の義弟・バルバのラインからファーストレディにも顔が利くというのである。

「ならイメルダを口説いてみろ」

 かくして傀儡になった渡辺は1971年、サンプル用に100グラムの覚醒剤を持たされフィリピンに飛んだ。イメルダ夫人と手を組み、国家プロジェクトで覚醒剤を造るようになったのである。

©iStock.com

 件の独占告白記事によれは、1967年に渡比し、鰹節の製造販売業を経て1971年、フィリピンで厳戒令が出されたのを機に捜査官に。続く1974年に密輸取締官。さらに1976年には麻薬取締官になったと記されている。

 嘱託とはいえ、渡辺が重要なポストに就けたのには理由があった。日経新聞記者時代に対日賠償使節団としてフィリピンから来た政府代表の随員だったマルコス大統領の義弟・バルバの知遇を得る。この縁で1967年から再三にわたりフィリピンに渡航して現地人と結婚し一児を授かり、洗礼してジミーというクリスチャン・ネームが与えられた。

 鰹節工場が潰れてからは政界の黒幕・バルバを身元保証人として政府機関で働くようになった。“友達”のツテで日本人でありながら重要なポストに就けたと推測される。

「俺とイメルダのことはだけは謳わなかった。言ったらどうなるか分かっていただろうからな」

 報復を恐れた渡辺の偽言だと和久井は言う。

 ここは和久井が正しいとしよう。自分の過去を都合よく改ざんすることはよくあることなのかもしれない。

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