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草の根から育った日本アニメ界の大樹・京都アニメーション

 京都アニメーションの歴史は、スタジオジブリと同じかそれ以上に古い。昭和中期、東京の手塚治虫の虫プロで仕上げを担当していた1人の女性が退職し、京都で鉄道経理の男性と暮らし始める。母として3人の子供を育てながら、美術教育を受けたこともない近所の主婦たちに塾を開いて絵を教え、東京のスタジオから仕上げの仕事を請け負うようになり、のちに京都アニメーションと名を変えて法人化され、20世紀末から21世紀にかけて日本を代表するアニメスタジオのひとつに成長する。

 現代表八田英明氏と、同じく創業者の八田陽子氏(旧姓:杉山)によるスタジオの歩みは、手塚治虫という天才が率いた虫プロとも、東映動画という名門で出会った宮崎駿・高畑勲が作ったスタジオジブリとも違う、草の根から育った日本アニメ界の大樹だった。

「オリジナル作品をヒットさせる」というアニメスタジオの夢

 KAエスマ文庫と京都アニメーション大賞には、京都アニメーションというスタジオの夢と理想がこめられていた。他社の人気原作のアニメ化を請け負うのではなく、自社で版権を持つオリジナル作品をヒットさせる。手塚治虫の虫プロで働いた経験のある八田陽子氏は、その価値をよく理解していたのだろう。それは多くのアニメスタジオの夢だ。

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 だが、京都アニメーションは、そこにもうひとつの夢、ファンダム、すなわち熱心なファンたちの集まりの中から生まれる、無名の才能による自己実現の夢をスタジオと共に重ねるシステムを構築した。

 京都アニメーション大賞という登竜門でファンの作品を募り、KAエスマ文庫という自分たちのレーベルからそれを書籍として出版し、アニメ化する。新人作家はデビュー作の出版と、原作者としての権利を持ち、アニメスタジオは版元としての権利、グッズなどの版権を持つ。それは他のスタジオにおける手塚治虫や宮崎駿、庵野秀明といったオリジナルを生み出す天才の位置に、ファンダムの中に眠る無数の才能を置くシステムだった。

 京都アニメーションが無名の若い才能を信じ、無名の若い才能が京都アニメーションを信じることで循環するシステムは、回を重ねるごとにゆっくりと回りはじめ、スタジオの労働環境に業界有数の安定をもたらしていた。