伝統的な農業は、あらゆる作業に体力が必要になる。田植えは腰をかがめて一本一本、苗を植えなければならない。収穫した稲を干すのも一苦労。腰の曲がるきつい作業が続く。
当然、「楽になりたい」「効率化したい」という思いが出てくる。技術者たちは、それに応えようとし、農業の機械化を進める。すると、作業効率がよくなり、生産量も増える。農家も喜ぶ。
そんな中、登場したのがトラクターだ。これによって一人の人間ができる作業が一気に拡大され、作業の分業化が進んだ。トラクターは、牛や馬のように餌をあげなくてもよい。女性でも容易に操れるため、農地は拡大する。
また、生肥に代るものとして化学肥料が登場した。生肥を柄杓で撒く作業は、腰を曲げて行う重労働である。しかし、化学肥料は立ったまま撒くことができる。農家は腰痛から解放される。
このような技術革新は、農家の生活や農業スタイルを一変させたのと同時に、戦争のあり方を大きく変えることになる。トラクターは戦車の生みの母になり、化学肥料は火薬へと転用される。結果、戦争から「人の命を奪ったという感覚」が失われていった。本来、人を殺すことには、罪悪感を伴う手触りが残る。しかし、機械化された殺人は、人を殺したという切実な自覚を奪う。簡単に大量の人を殺すことができるようになる。
これは、農業の現場の身体感覚の喪失ともつながる。「トラクターに乗っていると、土壌中の湿気と微生物たちの活動に注意を払いにくくなるように、戦車のなかに閉じこもっているかぎり、戦場で腐敗した死者の肉の臭いを嗅がなくてもす」む。
このような技術の世界に抗う方法はあるのか?
著者は、「人間は食べるものである」という感覚の回復に、その契機を見出す。人間は食べ物を口にし、肛門から排泄する。人間は「生態系をさまよう一本のチューブ」と見なすことができる。「人間の身体は食べものの通過点にすぎない」。
しかし、そのプロセスは壮大な行為である。人間は腸内に百兆個の細菌を育てている。その細菌が食べものを分解し、消化を助ける。「人間は細菌にとっては生態系」であり、「食べるというのは、宇宙を体に貫通させる」ことである。
この身体感覚を取り戻すことによって、機械化された世界に風穴を開けることができるのではないか。そう著者は訴える。これは「どの人間も、口からお尻にかけて、動植物の死骸の通路や微生物の棲家によって貫かれていることを前提とする自然観」に基づく。
本来の農業は、植物を育てる自然の力を助ける行為である。大量の化学肥料や農薬を使うのではなく、土壌の微生物が力を発揮できる環境を整えることが重要である。「即効性」ばかりを追求するのではなく、時間をかけて生物の働きを活性化する「遅効性」が重視されるべきである。
著者は、食や農業の再定義によって、効率主義を超えたオルタナティブな世界を獲得するヒントがあるという。著者には『ナチス・ドイツの有機農業 「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』や『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』といった秀逸なファシズム研究の著作がある。本書が説得的なのは、食や農がいかにして全体主義と接続したかを熟知した上で、テクノロジーの問題に挑んでいるからである。単なるエコロジー礼賛論ではない深遠な文明論だ。