『宿題の絵日記帳』(今井信吾 著)

 宿題の絵日記というと、子どもが無理矢理書かされるものというイメージがあるが、これは父親が書いたものだ。画家である父親に、次女の通う聾話学校から、授業で先生と耳の不自由な次女との会話を助ける宿題として出されたもの。今井家の次女、うららが小学校に入るまでの日々が独自のスケッチで切り取られ、説明書きの文章が添えられている。

 描かれるのは、誰もが自分の幼少期を思い出すような一家の日常だ。しっかりものでやさしいお姉ちゃまと、利かん気の強いうらら。巡る季節、背景の町、スーパーマーケットやデパート。二度とくり返されることのない時間が積み上げられていく。家族という小宇宙の成り立ちを、息をひそめて見守るような気持ちでページをめくる。そこに暮らす家族にはどういう人たちがいて、だからこのようなルールができあがって、こういう仕草が合い言葉になって、ひとつひとつ積み上げたものが、共有財産になっていく。外界の音が聞こえない幼い子どもは、この小宇宙のなかで何ひとつ臆することなく、のびのびと話して歌って遊んで、泣いて怒って眠っている。

 四人家族の日々を見て読んでいるうちに、だんだん不思議な感覚に囚われる。ここに描かれる四人の家族が、それぞれに個であると思えてくるのだ。子どもたちはひとりで髪も洗えなかったり自転車に乗れなかったりするけれど、でも両親に属している幼児ではなく、それぞれすでに確固とした個人のように見えてくる。性格や癖やありようというのは、遺伝と環境で「作られていく」ものだと私はなんとなく思っていたけれど、ここに登場する香月とうららは、ちいさな体のなかにすでに完成された自己を持っているみたいに思える。私たちはもしかしたら生まれたときからすでに私たちとして完成されているのではないか。あとから覚える言葉や表現よりずっと先んじて、私たちは完璧な個なのではないか。

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 そう思うと、家族というのは、血のつながりによって自然にいっしょにいる集団ではなくて、何か意思を持って同じ船に乗り合わせた人たちのように思えてくる。親が子どもの面倒を見たり、子どもが親を見て成長したり、という関係ではなく、個別に未来を目指していて、だからこそ大人も子どももなく、それぞれ個として助け合い、成長し合い、認め合い、二度と戻れない「今」という通過点に目をこらしていく――。今井家という小宇宙の成り立ちを見ているうちに、私のなかの家族観がそんなふうに変わっていった。

 写真の記録だったら、そんなふうに思うことはなかったろう。つねに「今」を通過し続けるしかないかなしみと、でもこうして「今」は永遠に私たちの内に蓄積されるという信頼。写真には写らないものを、この絵日記はとらえて描いている。

宿題の絵日記帳

今井 信吾(著)

リトル・モア
2017年6月21日 発売

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