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「失敗してもサラリーマンだから安泰でしょ、と思われたら改革なんてできない」 前編集長が明かす「少年サンデー」が“大赤字予測”から“復活”できたワケ

市原武法さんインタビュー#1

2021/11/30

部数や売上だけでは好調かどうかなんてわからない

――2005年時点での「少年サンデー」は、それでも業績としては悪くなかったように記憶しています。

市原 数字(売上)としては表面上は好調でしたよ。なぜかというと『MAJOR』がアニメ化して、とんでもない利益を叩き出していたからです。

 ですが、そのとき編集部にいた僕からすれば、「少年サンデー」は2004年から2009年にかけての5年間で事実上壊滅しました。内部はもう、しっちゃかめっちゃか。新人作家を全く育てられない。そもそも新人作家の育成には、だいたい6~7年はかかるものです。だから新人作家の育成は、その編集長の任期中には結果は出ないものなんです。かといって、そこに手を着けなければ、後世への負債は積み重なっていく。部数や売上を見ているだけでは、その雑誌が真の意味で好調かどうかなんて、本当にはわからないんですよ。

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2009年「ゲッサン」創刊

――「ゲッサン」が創刊されたのは2009年。創刊号の挨拶文は市原さんが書かれていました。

市原 そう(笑)。当時の僕は何の役付でもなかったので、最初は「編集長代理」という肩書で。実際の編集長業務は、最初から僕がやっていた。ようやく念願叶って、新人作家を育成する場がつくられました。

――「アフタヌーン四季賞」(※注:講談社「アフタヌーン」で年4回実施される新人賞。受賞作は別冊付録に収録された)みたいな新人作家を育成する場は、やっぱり必要ですよね。

市原 だから「ゲッサン」では同じことをやりました。「アフタヌーン」の編集長を務めた由利耕一さんは尊敬している先輩の一人です。ゲッサン創刊をとても喜んでくれて、いつも応援してくれました。

――創刊号の別冊付録に掲載された石井あゆみ先生(代表作『信長協奏曲』)の読切はものすごく印象に残っています。

市原 彼女はひとりで描くので、週刊連載のペースには合わなかったんですね。でも編集部に週刊誌しか媒体がなかったら、「週刊連載できないなら要りません」と、あれだけの才能を手放すことになってしまう。「少年サンデー」のブランド力を高めていくには、絶対に月刊誌が必要だったんです。

――その頃の「少年サンデー」本誌は……。

市原 上層部からは「お前は自分で作った自家用クルーザーで楽しく走り回ってるみたいだが、すぐ横で沈没していく戦艦大和をただながめているのがお前の男気なのか!?」とか怒鳴られましたけどね。いや、僕は「ゲッサン」の編集長なので、こっちが軌道に乗るまで動きませんよ、と。「帰ってこい」と言われても、戻る以上は編集長じゃなきゃ意味がない。

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