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いちばんスパルタだった『MAJOR』満田拓也先生

――その編集術は、どのように学んだのですか?

市原 うーん……、がんばって考えた(笑)。とくに学ぶ手段があるワケじゃないので。

――それはつまり、編集部に新人編集を育成するノウハウが蓄積されていなかった、ということでしょうか?

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市原 昔はきちんとありました。でもその頃には雲散霧消していましたね。僕の場合、担当した作家さんにしごかれました。

 いちばんスパルタだったのは満田拓也先生ですね(笑)。僕が担当した当時の満田先生は、『MAJOR』の人気が急上昇し始めた時期で、今まさに人生を切り開いてサクセスするかどうかの瀬戸際でした。打ち合わせはいつも真剣勝負。つねにヒリヒリしていました。公衆電話から打ち合わせしたときには、7時間かかったこともあります。途中、キオスクで1万円札を出してガムを買い、小銭に崩してもらったり……。いい意味でのヒリヒリ感に鍛えられましたね。

いちばんスパルタだったのは『MAJOR』の満田拓也先生だという

――日頃の仕事をしながら、オートマティズムで編集者を育成できるのが理想ですよね。

市原 それは本当に理想だし、そうじゃなければいけない。だけど、僕が28歳の頃の「少年サンデー」編集部には、そういった編集者育成の風土みたいなものが完全になくなっていた。それに、新人作家を育てる場も減っていきました。

新人育成のための媒体

――新人作家の作品を載せる媒体がなくなった?

市原 そういうことです。それまでは月刊の増刊号(「週刊少年サンデーS」)が新人作家を育成する場として機能していたんですけど、それをやめることになった。だいたい編集長は3年の任期なので、増刊号を減らしてコストカットすれば、表面上の業績は上向くし、社内的には評価されて出世する。バカじゃねえの、って話ですよ。いったいどうやって新人作家を育てればいいんだ、と。それで僕は上層部と大喧嘩しました。そのときに「新人育成のための月刊誌」という企画書を檄文とともに会社に提出したんですよ。2002年のことですね。

 それがのちに「ゲッサン」につながります。まあ、そのときは30分で揉み潰されましたけど……。「お前はエースで新人育成をしなきゃいけない立場なのに、こんなことしてる場合か!」って。「いや、新人を育成してもどこに載せるんですか。載せる場所をどんどん潰していっているじゃないですか。月刊誌をつくらなかったらサンデーは終わりますよ」って言ったんですけどね。