1ページ目から読む
4/5ページ目

日本政府の支配がおよんでいなかった

「島外に出るのも会社が発行する出向許可証が必要だったんですが、『優秀な人ほど発行されない』(=島にとどめ置かれる)という噂があったといいますね。あと、警察がえこひいきをして、八丈系の人たちは悪いことをしてもつかまらないとか……」

 私が話を聞いた50代の島民(父親の代に移住、沖縄系)はこう話す。往年、島民たちは自由な移動も認められぬまま重労働を強いられ、しかも生産物は安く買い上げられた。病気をしても犯罪が起きても、島の支配者である会社に頼るしかない。

 当然、住民たち自身による民主的な意思決定システムは存在せず──。などという話以前の問題として、戦前のこの島にはそもそも日本政府の地方行政がおよんでおらず、町村すら設置されていなかった。

ADVERTISEMENT

島の中心部にある大池。往年、島内に淡水があることで開拓が可能になった。

辺境なのに東京文化

 1926年の島民人口4015人の内訳は、沖縄県出身者が2724人、東京都(実質的には八丈島など)からが1024人、さらに鹿児島・静岡・熊本など日本各地から数十~数人ずつなどとなっている。彼らの多くが当時の南大東島のプランテーション労働者だった。

 人数としては沖縄県内出身者が多数派だったものの、開発の経緯から八丈人の勢力が強かったらしい。上記の証言のように、沖縄系島民と八丈系島民の対立も存在した。支配者である会社側から見れば「分割統治」に成功していたともいえる。

島内にあるお地蔵さま。琉球文化圏である沖縄県各地ではあまり見かけないが、南大東島では島民に信仰されている。かつては大東寺という日本式の仏教寺院もあったが大戦中に荒廃してしまい、現在は門柱しか残っていない。

 ちなみにこうした経緯から、島内では現在でも、沖縄県の他地域ではあまりみられない、日本本土と同じ地蔵信仰がみられる。歴史が短い土地の割には神社の数が多く、墓石も琉球式と日本式が混在している。島の名物である大東寿司も、やはり八丈島の影響が強い──。

島内の金毘羅宮を尋ねると神事がおこなわれていた。やはり県内の他地域ではそれほど多く見られない光景だ。

 つまり、間接的ながら東京の文化だ。沖縄県の最辺境の島のほうが文化的に東京に近いのは、理由はわかっていてもやはり不思議である。

 いっぽう、食堂に行くと大東寿司以外の料理は沖縄風のものが多く、テーブルにはこーれぐーすがある。

左は大東そば。沖縄そばに似た味付けだが麺が太い。右は魚のフギ炒め。フギはマグロの胃袋らしく、コリコリして美味。

 島の言葉は「おじゃりやれ」と八丈系の言語なのだが、行政機関のポスターでは「はいさい」「ゆいまーる」などの琉球語が使われている。いろいろゴチャ混ぜなのだ。