日本政府の支配がおよんでいなかった
「島外に出るのも会社が発行する出向許可証が必要だったんですが、『優秀な人ほど発行されない』(=島にとどめ置かれる)という噂があったといいますね。あと、警察がえこひいきをして、八丈系の人たちは悪いことをしてもつかまらないとか……」
私が話を聞いた50代の島民(父親の代に移住、沖縄系)はこう話す。往年、島民たちは自由な移動も認められぬまま重労働を強いられ、しかも生産物は安く買い上げられた。病気をしても犯罪が起きても、島の支配者である会社に頼るしかない。
当然、住民たち自身による民主的な意思決定システムは存在せず──。などという話以前の問題として、戦前のこの島にはそもそも日本政府の地方行政がおよんでおらず、町村すら設置されていなかった。
辺境なのに東京文化
1926年の島民人口4015人の内訳は、沖縄県出身者が2724人、東京都(実質的には八丈島など)からが1024人、さらに鹿児島・静岡・熊本など日本各地から数十~数人ずつなどとなっている。彼らの多くが当時の南大東島のプランテーション労働者だった。
人数としては沖縄県内出身者が多数派だったものの、開発の経緯から八丈人の勢力が強かったらしい。上記の証言のように、沖縄系島民と八丈系島民の対立も存在した。支配者である会社側から見れば「分割統治」に成功していたともいえる。
ちなみにこうした経緯から、島内では現在でも、沖縄県の他地域ではあまりみられない、日本本土と同じ地蔵信仰がみられる。歴史が短い土地の割には神社の数が多く、墓石も琉球式と日本式が混在している。島の名物である大東寿司も、やはり八丈島の影響が強い──。
つまり、間接的ながら東京の文化だ。沖縄県の最辺境の島のほうが文化的に東京に近いのは、理由はわかっていてもやはり不思議である。
いっぽう、食堂に行くと大東寿司以外の料理は沖縄風のものが多く、テーブルにはこーれぐーすがある。
島の言葉は「おじゃりやれ」と八丈系の言語なのだが、行政機関のポスターでは「はいさい」「ゆいまーる」などの琉球語が使われている。いろいろゴチャ混ぜなのだ。