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 一例として挙げたいのは、竹宮の『ファラオの墓』(1974~1976年)だ。竹宮は「描きたいテーマ(=『風と木の詩』)」を実現するには、自身の発言力を高める必要があると判断し、読者アンケート1位を目指した。だが、「一度も1位になることはなかった」という。当時はまだ、そのような位置づけだった。

「ただ、雑誌の“良心”を担う作品というか、巻末に掲載したいのが萩尾・竹宮でした。彼女たちの文学性の高い作品が思春期の少女たちの心に刺さったのは事実で、熱狂的なファンやフォロワーを生みました。萩尾・竹宮の編集部内での地位を押し上げたのは、セールスというよりも熱心なファンの声だったのではないでしょうか」とは、前出の編集者の弁である。

 

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 萩尾は竹宮・増山の提唱した「少女マンガ革命」に加担したわけではない。しかし、70年代に自身の作風で表現の可能性を広げた、少女マンガの変革者であるのは、変わりようのない事実である。

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 その後、萩尾と竹宮は絶縁状態に陥ってしまう。あの頃、大泉サロンの中では一体何が起きていたのか――。記事の全文は現在発売中の『週刊文春エンタ!』にてお読み下さい。