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 ここで木原が作品の傾向について言及している点が興味深い。つまり「24年組」は、「団塊の世代」とか「松坂世代」のように世代全体をあらわす語句ではなく、特定の作品傾向を志す集団、いわば「大泉グループ」と同義として用いられてきながら、当の本人たちに当事者意識がなかったことになる。萩尾が「私の知らないうちに流布していました」と述べたのも合点がいく。

萩尾・竹宮は“看板”作家ではなかった?

 では「少女マンガ革命」についてはどうか。

 竹宮は「マンガで革命を起こす――。私はそう決意して国立大学を中退し、この世界に入りました」と前掲書で明言している。

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 竹宮の「革命」は、女性作家の待遇改善(原稿料の賃上げなど)と、少女マンガの質的向上にあった。同書で「ずっと描きたいと思っていたテーマがありました。少年同士の愛です。少女の代わりに美しい少年同士の物語として描けば、生々しくならず、少女にも受け入れられるのではないか、と考えました」と語っているが、それは当時の少女マンガ業界の常識では到底、許容されるものではなかった。少年同士の恋愛物語を掲載させる。そのために編集者と争闘するのが、竹宮にとっての少女マンガ革命であった。

 増山法恵は1995年に刊行された『別冊宝島288号  70 年代マンガ大百科』(宝島社)でのインタビューで「『デミアン』とか“ウィーン少年合唱団”とか、少年系を勧めたのは私なのです(笑)。私は昔から“少年愛”に憧れてたし、“パブリックスクール”とか好きなんです。それに、当時の竹宮の絵は、少年のほうが全然魅力的だったから、少年の世界を描いてほしくって」と述べている。また、「“こんな現状を変えなければ”っていつも話してた。少女マンガを少年マンガと同レベルに! いや、それ以上にしないと、少女マンガの未来はないのだ!」とも語っており、竹宮と増山のあいだでは、少女マンガ革命についての合意は形成されていた様子がうかがえる。

 こうした竹宮の「少女マンガ革命」は『風と木の詩』(1976年)で結実し、彼女の切り開いた「少年愛」のジャンルは、現在のBL隆盛へとつながっていく。

扉はひらく いくたびも―時代の証言者』(中央公論新社)。竹宮が自身で綴った半生記。

 だが、萩尾は自身の関与を否定する。「私は今でも『少年愛』というものをよくわからないままなのです」(『一度きり』)と、自身の作品のテーマが竹宮とは異なっている点を強調し、「私が竹宮先生と二人で『少女マンガ革命』を目指していたはずはないんです。なぜなら、私は排除されたはずだから」(『一度きり』)と続ける。

 では、萩尾は少女マンガに革命をもたらさなかったのか。当時の少女マンガ誌の編集者は、次のように語る。

「前提として萩尾・竹宮だけでは当時の雑誌は成立しません。当時少女マンガは各社が雑誌部数を競い合って、市場を大きくしていきました。これをけん引したのは、2人にとどまらず様々な才能です。池田理代子、大和和紀、山本鈴美香、美内すずえ……など、多くの多彩な作家が競い合い、そのうえで全体としてブームが生まれました。萩尾・竹宮を起用すれば雑誌が売れるかというと事情は違います。むしろ売れ行きということからは、雑な言い方ですが、もっと読者の広がりがある作家さんをまず考えましたね」