2019年、91歳で惜しまれつつこの世を去った国民的作家・田辺聖子さん。昨年、1945年から47年までの青春期を綴った日記が発見されました。

 記されていたのは、「大空襲」「敗戦」「父の死」「作家への夢」……。戦時下、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに書き過ごしたのでしょうか。日記をまとめた『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)より一部抜粋して、父親の死について書かれた日記を紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)

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父の容態が一変

12月2日 日曜日

 ひどく寒い日々だ。巷(ちまた)には餓死者が氾濫している。貧民は年の瀬が越せまい。風は冷たく吹き抜け、そのために美しいコバルトの武庫川の空でさえ、冷やかに感ぜられる。

12月23日 日曜日

 母が田舎から帰ってからというもの、父の病態は一向捗々(はかばか)しくなくって、とうとうどん詰まりまで来てしまった。

 一昨日の朝、極度に衰弱していた父の容態が一変し、正午には京都の宗雄兄さんと、服部の叔母2人へ電報「カン一キトク」を打つ。近所の人々に医院へ駆けつけてもらう。

 夜、叔母(が)来、昨日朝、正午近く宗雄兄さんが来る。父はひどく、しんどい、しんどいと言う。池田先生が強心剤を注射。こう急にくるとは思わなかった。もう昨日今日は、はっきりものを言う元気ももたない。母は泣き通しである。父は「お母ちゃんよう」と母を呼び、母の首に手をまきつける。もじゃもじゃ生えた無精髯の間からは黄色い乱杭歯が見える。垢くさいマッチ軸のような細い手、色の悪い頬、それらが急になつかしく愛すべきものに見えてくる。

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父・貫一が亡くなる

 人の顔さえみると、ゆったり微笑し、なつめの様な目を明けるが、もうものを言う元気もないらしく、おだやかに眠るばかりだ。時折、大きい呻き声をあげる。胸が苦しいという。心臓が弱っているのだ。「おお可哀想に、しんどいなあ、しんどい、しんどい」

 母は涙を泛(うか)べて父の背をさすり抱くと、父はさも気が紛れて安心したように、母の胸に顔を埋(うず)めて眠る。危篤というても、今が今というのでもないらしいから、宗雄兄さんは帰る。おばあさんは台所を切り廻しているが、遠慮なくよその家の米を使う。私の家の米だということを頭においていないらしい。どこか抜けてるのではあるまいか。