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「薄命に散ったお父さん、私の不孝だったのをお許し下さい」作家・田辺聖子が、父の死後に送った“言葉”

『田辺聖子 十八歳の日の記録』より#4

2022/01/27

source : 文藝出版局

genre : エンタメ, 読書

note

 漢文で浩然(こうぜん)の気(※天地の間に満ちている精気。俗事から解放された屈託のない心持ち。出典は『孟子』)を習った。まだはっきりしない。しかし面白い。論語の方が孟子より面白いと思うが、孟子の王道政治の理想は、民主主義の今日でも共通する倫理を含んでいる。しかし理想はあくまで理想だ。孟子の夢は、違った形をとって、いつの世にも人類の上に輝いている。充実した生活を――それのみを願う。3月上旬に試験があるだろう。私は一心に勉強せねばならないと思う。いつの時にも父のことは胸をはなれず、可愛がって下さった父のことを思う。

わがそばにつねにいませりかた時も
去ることなくて父はいませり

 父はたしかにいる、そして私たちを見つめていられる。私は清く、たくましく伸びよう。お父さん見てて! きっと偉い人になりましょう。薄命に散ったお父さん、私の不孝だったのをお許し下さい。私は父の無言の許しを感じる。

人間の至高価値と究極の理想を求めて

2月11日 月曜日

 身辺雑事に追われて、紀元節(※現在の「建国記念日」にあたるもの)の式にも学校へ行かなかった。服部では、元枝姉さんのところへ、叔父が復員で帰ってきたが、すぐマラリアにかかって九度を下らない。そこで、元枝姉さんも早く別れたいのであるが、まだ服部の叔母とは別れられないらしい。服部の家ではますますルーズぶりを発揮し、まだ復員しない叔父のために取っておいた靴を、従弟が無断で穿きつぶし、祖母はくやしさのあまり、母に訴えにきた。母もともに義憤を感じている。長女は女優からダンサーに転落し、さらにまた女給におちこみ、へんな男をくわえ込み、酒はあおるし、煙草をふかし、外泊しはじめた。その母親の叔母は、相手の男を向うへ廻して、10万取るのなんのと策動しているようだ。長男は厚かましく方々へ泊ったりして、実にいやな奴で、きざっぽく、ふにゃふにゃとしている。こんないとこたちと私たちきょうだいと比べると、急に祖母や元枝叔母の目が我々を高く評価してきたから不思議だ。

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 私達には、理想がある。希望がある。光明がある。

 人間の至高価値と究極の理想を求めて、ひたすら勉強するのだ。

先輩の須藤さんからの手紙

2月14日 木曜日 晴

 春のような日差しがつづく。武庫川の堤を歩くと、実に和やかである。

 今日、担任の勝俣先生がおくやみに来て下さった。吶弁(とつべん)でぽつりぽつりと母と話される。一日中かかって、母は家を整頓し、5円、10円の菓子をあまた買い求めて来て菓子器に入れ、人から借りものの座布団を出したり茶道具を出したりしたのであった。