2019年、91歳で惜しまれつつこの世を去った国民的作家・田辺聖子さん。昨年、1945年から47年までの青春期を綴った日記が発見されました。

 記されていたのは、「大空襲」「敗戦」「父の死」「作家への夢」……。戦時下、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに書き過ごしたのでしょうか。日記をまとめた『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)より一部抜粋して、病気の父について書かれた日記を紹介します。(全2回の1回目/後編を読む)

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10月21日 日曜日

 私は若いが、しかし死にたくなる時がある。

 お母さんはどんなに苦労だろうと思う。パール・バックの「母の肖像」をよんで感激した。彼女はよく母を理解している。

母・勝世。生後65日の田辺さんと

 私もお母さんを理解はしているが、しかしお母さんは私を理解していまいと思える。まして私は、妹の無理解には立腹する。私の興味は妹にとって何ともないし、私の美に対する喜びは妹にとって無関心である。私は修養出来ていないから、それを看過するだけの気持ちにはなれない。将来もあまり仲の好くない姉妹が出来上るであろうことは、かなしいけれど仕方がない。私は妹の人物については理解しているつもりだが、しかしあの子は私を理解しようなんて考えてみたこともなく、いつも怒っている。自分の範疇(カテゴリ)に当てはめせぬからだ。

 私はしかし「戦える使徒」(※パール・バック著。自らの父であり、また宣教師として中国に渡り、民衆に献身、「聖者」とまで仰がれた使徒「アンドリウ」を描いた)のように父は描きはすまい。父は永久に、我々3人の子供からその真の姿を描かれないだろう。それはあまりに悲惨であるし、つまらないから。

父が吐血した日

 私の言おうとすることは支離滅裂で頭は濁っており、むしろ私は今、死んでしまった方が楽な状態だ。家中は不愉快なことだらけで、私は死ぬのを待っている。どちらを向いても泣きたくなり、人生への希望も何にもありはしない。この私を慰めるのはただ一つ。自然美と学問とあるのみだが、天気は曇っているし……勉強も、手につかない。それは家がごたごたしているためで、席のあたたまる暇もなく働くからだ。